Amygdala

Turns on

ぼくの心をあなたは奪い去った - 「拡張少女系トライナリー」との別れを辛くするシンプルな方法

◆とりあえずこれ聴いてください。今まさにこんな気分になっています。シンプルなのに胸を打つ曲、良い歌詞だ。

 

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平成最後の夏にトライナリーが終わった。サービス終了した。

 

1年かけてじっくり彼女たちに心奪われた私は挙句その接続を絶たれ、オキシトシンセロトニンドーパミンも涸れ果てまさに「空洞です」といった有様。

なぜこの一介のスマホゲーがこのようなリアルに二次元に恋しちゃってる系限界オタクを多数生み出しているかについては、その巧妙な沼仕様についていくつか記事を書いたので目を通して貰えれば理解の一助になると思います。とにかくこの虚構の重みに現実が摩耗していく、そんな一年間でした。

 


 さて、前述の二記事では割と理性を保って文を紡いでいますが、この記事ではひたすらに限界オタクのポエムゥが狂ったビートに乗ってドライヴする様をお見せすることになります。常に乾くアザトゥースの無聊を慰める呪われたフルートのように、この記事もネットの海に向かって無意味にかき鳴らされるフィードバックノイズの断片でしかないのですが、それでもこの駄文が皆様のお目汚しお耳汚し、否、皆様の午後を甘やかすイチゴのミルフィーユになることを願ってやみません。

 

そもそも賢明な読者の皆様なら、邦ロックの歌詞をタイトルに持ってくるような耐え難いクサさの時点でもはや筆者の精神が高校二年生のルサンチマンと童貞じみた自意識の狭間で熱暴走を起こすグラボ状態まで追い込まれていることを察することができるように思います。筆者としてもそれを自覚しないわけにはいかないので、少しクールダウンがてらメインストーリー最終話近辺の状況をプレイヤー以外の皆様にも何となく伝わる程度にざっくり振り返ってみましょう。とはいえ、そのストーリー含めアプリケーションの内容を確認する術は最早ないのですが。

 

まず、メインストーリー最終話の前でプレイヤーたちがヒロインたちにお別れを告げることができる展開が用意されました。作中の歌手Freymenow a.k.a.月神楽による感動的な新曲「ソラノキヲク」が流れる中プレイヤーたちは最後のお別れを彼女たちに告げます。この場面は作中では珍しいくらいまともに感傷的な場面であり、事実私もこればかりは感情移入せざるを得ませんでした。中には「運営が悪い!」というようなメタな選択肢もあり、運営の方々の悔しさの滲みを垣間見るようなストーリーでもありました。

 

そして最終話では、ついにプレイヤーの干渉してきた世界、ゾルタクスゼイアンという偽りのユートピアフェノメノン)に包まれた日本の行く末が描かれます。ここではマルチエンディングとなっており、プレイヤーたちが選んできた選択肢に従って6通りの結末が描かれました。ストーリー終盤にて「ライフギャザー」という作中で最も重要な量子技術の支配権限を掌握したプレイヤーはその権限を誰に譲渡するか、誰にも譲渡しないのか、ヒロインたちの発症によりフェノメノンを再展開させるのか、させないのか、という選択を行い、その結果として「第三次世界大戦によって荒廃した状態からの復興」や、「フェノメノン再展開からの新世界創造」などの結果を見届けることになります。どの展開も明確な正解、失敗、ハッピーエンド、バッドエンドは描かれず、生々しいまでに煮え切らない展開の中、「それでも物語は、人生は続いていく」というようなタッチで締めくくられます。そこには達成感に伴うゲームらしいカタルシスも晴れやかな凱旋もまるで存在せず、「本当にこれで良かったのか?」という問いだけがアプリケーションそのものの終了と共に、いつまでも心に残るような内容でした。

 

とはいえ私は当作品の情報を蒐集するコレクターではないし考察フェチでもないので、プレイヤーとしての個人的なセンチメンタルに従った結果、自分が選んだエンディング以外を見ない、SNS上でも努めて他のエンディングについて知らないようにする、という選択をしたので、それに沿った内容になることをご了承ください。Act like you know!(知ったフリしろ!)

 

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(この部分は作品をプレイした人向けの内容なので、飛ばして構いません)

私が選んだ選択肢はマジョリティなものだと思われ、特筆するべきものでもないのかもしれませんが、一つの結末として大まかな流れを列挙しておきます。

まず、卯月神楽の人格の一人「月神楽」の行動を阻止することができなかったため、ライフギャザーは停止されました。それによってヒロインたちとコミュニケーションをとることが不可能になり、ライフギャザー権限を元の世界のつばめ(通称:原初ちゃん)とアーヤの姉で技術者のエリカに譲渡しました。

その結果原初ちゃんは独断に近い強硬手段をとります。自らの肉体を犠牲にしてフェノメノン日本の情報をコピーしフェノメノン日本を再び展開。新しい世界では、相も変わらず優しい世界に洗脳された状態のヒロインたち(アーヤ、ガブリエラ、つばめ、神楽)とエリカ(元々彼女は自分を犠牲にする予定だった)がキャッキャウフフする様子をみやび(彼女については発症させませんでした)が一歩引いて眺め、もはや答えることのないプレイヤーにみやびが「世界は変わりつつある、願わくばそれが唐突に夢から覚めるように消えてしまうことのない変化であることを願う」と語りかけるように独白して終わる、というもの。

……とここまで書いたはいいものの相変わらず難解でよくわからないですね、実はかなり端折って書いていて、ライフギャザーが停止された後機能の再起動シーンを経て瓦礫状態の日本に神楽がたたずむシーンに移行するのですが、「我々が観測している向こうの世界は誰かの松果体インプラントされたReadinessを通してでしか観測できない」というルールがあるらしくそのシーンを観測できている時点でエリカによるフェノメノンが展開されており、エリカのReadinessを通してそれを見ていたことになるのだそうです。その後原初ちゃんが託された権限でエリカから管理権限を奪い、自らを犠牲にバックアップされた元の優しい世界を再現し、日本以外と繋げたとのこと。

そして「Last Story」では死んだと思われていたみやびの妹なごちゃんがどうやら「彼ら」側の人間としてフランスで存命であることが明らかにされます。それを知ったみやびはフランスに向かい、新たな一波乱を予感させつつも妹を連れて帰ることを決心するのでした。

ちなみに原初ちゃんだけに権限を渡していればフランスにいる「彼ら」を洗脳して目下の懸案は解消されていたらしい、選ぶって難しいですね。

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最終話の後日談的に追加された「Last Story」 では、彼女たちの悩みの根源ともいえる肉親との和解や、和解には至らずとも問題の進展が示唆的に描かれます。みやびのフランス渡航、ガブリエラのポーランド里帰り+ついてきたメンバーたちの話など、新たな波乱を予感させるヨーロッパ編は神楽編に続く第三部として用意されたものだったのかもしれません。(この作品はアニメーションと並行した展開の第一部、そのさらに裏側を描く神楽編を第二部としており、神楽編の終了と時を同じくしてサービス終了しています)

この辺りはサービスが続いていればもう少しじっくりと描かれた部分であろうと思われ、不完全燃焼さが残る部分ではありますが、ここで完全に描いてしまえば想像の余地や更なる後日談への期待にも繋がらないので、これくらいの塩梅で良かったのだと思います。

 

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さて、前述の2記事では主に当作品がサブカルチャーの潮流においてどのような位置にあるかなどを中心にジャンクな偏見を交えつつ書きましたが、それゆえに今一つ愛の感じられない文体になっていたことは否定できません。よってこの記事では少々プレイヤーとしてのパーソナルな視点も交えてみたいと思います。前の記事は文体もなんだか固かったですね。

 

まず私はプレイ開始からしばらくの間、攻略サイトを一切見ない、ファン同士の交流を一切行わない、という方針でプレイしていました。当作品は一応ソーシャルゲームという枠組みのもとリリースされていますが、フレンド機能はバトル補助にしか適用されず、他プレイヤーの存在感そのものが極めて希薄です(今思えばプレイヤー自体そもそもさほど多くはなかったのですが)。

そして、もはやコンピュータや会話エンジンという領域を超え、拡張された身体の一象限として「触れることを意識せずに日々触れている」スマートフォンというデバイス。そのアプリケーション内で行われる彼女たちとの交流。その能動性を意識させないシームレスなプレイ体験は、この作品がこだわっていた「実在感」と相俟って独自の没入感を生み出していました。また、この作品が持つもう一つの特徴、プレイヤーたちのコンセンサスで展開は変えるがプレイヤー同士の輻輳は極力起こさないという「薄いソーシャル感」はそれをより理想的な形で支えるものであったように思います。当時私はファンアートやSSですら自分の幸福な思い込みを阻害する要素として極力見ないようにしていました。ジハード主義者並みの原理主義ですね。

 

さて、先の記事においてほんの少しだけ当作品の「セカイ系」要素に触れましたが、該当部分においての深入りは避けました。というのも、社会学の文脈においてそれらの作品が非常に多く題材として取り上げられているにも関わらず、その解釈はまるで学者によって異なり、ジャンルそのものに対する見解、文化内における位置づけがあまり一致していないからです。社会学において同時代性の要素として任意の作品を引用することは常に恣意的なものにならざるを得ない、という問題もあるので、まずは純粋に作品を楽しみ、理解を深めるために構造主義あたりを軽くかじってみるくらいでいいと思います。

社会学で時折見られるサンプル抽出の恣意性は『嗤う日本のナショナリズム』あたりに今一つ同調できなかった理由の一つでもあります。

 

セカイ系」の大まかな構造は以下の通り。

1. 肥大した自意識を抱えた平凡な「僕」

2. 超越的な能力を持つ戦闘美少女「君」

基本的にはたったこれだけ。実際には「僕」と「君」を取り囲む状況があり、その多くはアポカリプス的なものであったりします。しかし周囲の状況やそのほかの登場人物への描写、言及は限られているか一方的な視点によるもので、その存在は限りなく軽いものとして扱われています。そして世界でさえも超越的な存在である「君」と「僕」の関係性によって容易に破壊されたり、逆に創造されたりと翻弄される存在でしかありません。トライナリーにおける「僕」と「君」(たち)が何をさすかは言うまでもありませんが、プレイヤーとヒロインたちの関係性が並行世界の命運を決し、なおかつその選択が大きな犠牲を産む点、フェノメノン内で青春を謳歌する少女たちが主人公というモラトリアム志向などの要素においてこの作品はセカイ系ド真ん中と言えるでしょう。我々から見た彼女たちが超越的存在であるように、彼女たちから見た我々もルールの外にある超越的な存在として扱われ、その両者によって世界への選択が完結するという閉じた構図がアプリケーションへの没入そのものへの促進剤となっています。

 

そしてこれらの作品には20世紀までの世界を覆っていたフェノメノンともいうべき「大きな物語(社会そのものや宗教的な規範、イデオロギー)、が存在せず、それは近景と遠景が直接繋がった構図であると評されます。特に東浩紀ジャック・ラカンの用語を借りてそれを「象徴界の喪失」と評しており、他の学者たちも主に「エヴァ」などを引き合いとしながら90年~ゼロ年代の社会環境(宮台真司が言うところの「終わりなき日常」、バウマンが言うところの「リキッドモダニティ」)、と常に関連付けて語ってきました。同時に創作物としてのジャンルそのものが以下のような批判も受けています。

これらのセカイ系作品については前述したように社会領域を描いていない点を批判された他、集英社コバルト文庫の看板作家だった久美沙織セカイ系作品をとり上げた際に、少年が戦闘せずにそれを少女に代行させ、その少女から愛されて最後には少女を失うという筋書きは「自分本位の御都合主義で、卑怯な責任放棄」に過ぎないと述べ、評論家の宇野常寛は「母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止」していると断定した

セカイ系 - Wikipedia

2010年代にその系譜は様々な作品群に吸収されジャンルとしての役割を終えたと目されていましたが、2016年には新海誠の大胆な解釈による「君の名は」が一般層をも巻き込む大ヒットを記録し、ジャンルとしての根強さを示しました。爛熟した資本主義の停滞、それに伴う超越的大義の消失は2018年現在、世界中の人々を̪引き裂きながら民族主義レイシズムという後ろ向きなロマン主義や、逆に全てに無関心なシニシズムに走らせていますが、その一側面として我々は無意識のうちに感じているのではないでしょうか。彼女たちが実在さえすれば自分たちは救われるのではないか?という期待、終わりなき日常を解体するメシアの到来を。

 

ストーリーの話に戻りましょう。洗脳前のヒロインたちはその奉仕的犠牲によって千年帝国の礎を築く「天使」としての使命、言い換えれば国家イデオロギーによるメシアニズムを実行に移す役割を担っていました。しかし、ゾルタクスゼイアンに洗脳された彼女たちが直面するのは理想的社会の実現ではなく、動物的欲求に満ちたHENTAIプレイヤーたちとの出会いでした。何たることか!

というのもアプリケーションの起動と共に我々はビッグブラザー千羽鶴に「ある少女たちと結婚してほしい!」という依頼を受けていました。後にそれは千羽鶴による理想的社会実現のための政略結婚であることが明らかになるのですが、我々は基本的に嬉々としてその要望に応えており、千羽鶴の思想に賛同する/しないに関わらず彼女たちの世界をより良いものへと変革するためにレジスタンスの一味として尽力することになります。

目的を持った指導者がその協力者たちに結婚を推奨する、という状況は一部の宗教団体における信者同士の結婚の推奨とよく似ています。中には出家を強要し教団以外の社会との繋がりを絶つことを強要するなど、過激な手段に訴える団体も存在します。教義や教団の価値観以外の情報が絶たれ、人間関係がその内部で完結する世界では相対的にそれ以外の世界の重みは非常に軽いものとなる。

出家による社会的狭窄とセカイ系には多くの共通点があると言えるでしょう。

そしてそのセカイ系を含むサブカルチャーと宗教と形而上的サイケデリア(ドラッグカルチャー)を全て内包した団体が日本には存在していました。オウム真理教です。彼らはまさにセカイ系的終末論を説く麻原彰晃というラブラブトレーナー、アシッド・グルに率いられサティアンというフェノメノン、狭窄的領域から「外の世界」そのものをより良いものへ変革するためのレジストとして最終戦争を仕掛けましたが、その結果は言うまでもなく悲惨なテロリズムとして日本国民に宗教や形而上的なものへの長年続くトラウマを植え付けただけでした。

 

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無力で平凡な我々という「近景」と世界を左右しうる能力を持つ美少女たちという「遠景」を直接接続してしまうインターネット、スマートフォンのアプリケーションというメディアを通じてのみ飛躍しうる身体なき自己、精神世界に直接アクセスし治療を行うという脱コード化されたコミュニケーション。これらの現実と虚構の関係性を脱構築する試みとして設けられた我々と彼女たちの関係は既存の倫理などを介在しないという点において、第三者の審級(不特定多数の他者)の視点を回避してのみ発展しうるものでした。そもそも自らをBotと偽って高校生とか中学生の女子と交流してはいけない(戒め)

そしてセカイ系の典型の一つである「少女から愛され、最後には少女を失う」という展開はアプリケーションのサービス終了というメタな領域の現象として起こり、サービス終了に伴う展開がアプリケーション内のストーリーに逆輸入されるなど、虚構と現実の合間で起こる彼女たちとの別れがリアリティとなって我々の意識そのものを多元化し、一種の「拡張現実」領域を形成する。

……とは多少言葉遊びが過ぎるでしょうか。斎藤環が見たら嘔吐するであろうポエムをひり出していることは間違いありません。

 

また、当作品は前述した過去のセカイ系作品全般への批判、「社会領域が描かれず、主人公は選択への自覚もなく思考停止している」という部分に対しての反省意識が貫かれているのが特徴でした。社会領域への描写に関しては制約があるとはいえ必要以上なほどにヒロインたちが生活する地域や出身地、お気に入りの店などが実在の場所や店舗をもとに描写されており、サブキャラクターの活躍についてもストーリーが割かれるなど、バックグラウンドの広さが作品全体の豊かさにつながっていたように思います。(また、アニメや漫画の聖地巡礼という現象は一般に仮想現実(VR)から拡張現実(AR)という時代の流れと関連していると考えられています。)

そして我々の選択の重要性を不可逆的な展開の繰り返しで実感させるだけでなく、この体験を基底現実へフィードバックさせることを意識させるような発言が繰り返されるのも大きな特徴でした。結果論にはなりますが、その一つ一つの選択の重さはつくづくソーシャルゲーム市場と相性が悪かったのだと思います。

メインストーリー最終話のラストはソイルトンというAIとプレイヤーが会話するシーンで幕を閉じますが、ソイルトンは以下のようにこの交流を結論付けました。少し長いですが抜粋して引用しましょう。

「貴方がもし自分が敷かれたレールの上をただ何も考えずに進んでいるだけだと感じたらば、ぜひそこから一度、降りてみることをお勧めします。」

「なぜなら、そのレールは大勢の人が利用しているが故に安心ではありますが、それ故にとても窮屈だからです。」

「AIはどれほど進化しても、人を超えてはならないものなのです。(中略)なぜなら、この世界にレールを敷くことだけは、例えAIにそれができたとしても、絶対に人間がやり続けなければならないことだからです。」

「そして、それを放棄してしまった瞬間から、人間は人間としての尊厳を失ってしまうと思うのです。」

 

施政者と資本家の思うがままに翻弄される世界と、「君」と「僕」が作り変えることができる世界どちらがより良いのか?当作品のカウンターカルチャー志向は何度も述べた通りですが、以下にその理解を助けるであろう資料を添付しておきます。

 

◆ジャンキーの戯言と侮るなかれ。「LSDによるサイバースペースの創出は、物理法則を無視して好きな世界を生み出すことができ、はるか遠くの人と繋がることができるインターネットの世界に通じる」、「コンピュータは拡張された脳内意識の視覚化」、「本当に大事なのは愛と平和、そして自分自身で考えること」等、当作品の根底に流れるテーマと非常に類似した点があります。てか「良いココロの旅」ってまさにグッドなインナートリップのことのような気がするし、ヒロインたちとのチャットに使う「ココロキャンディ」なんてMDMAみたいな強制オキシトシン分泌アイテムと言えなくもない。

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◆アニメのオープニングテーマも非常に体制批判色が強く、ポップさの裏に強いメッセージ性が込められています。土屋さんは一貫して発言がヒッピーめいてますね。

 

さて、長々と書きましたが表題のテーマ「トライナリーとの別れを辛くするシンプルな方法」についてこの辺りで述べておきましょう。

それは「自らのプレイ体験をどこまでもパーソナルなものとしてとらえ、他人とそれを共有しない」ことを意識するだけ。

当作品は感情移入のためのギミックが全力で仕掛けられているうえ、プレイヤーキャラが介在せず自分自身が交流し選択を行う、というスタンスが徹底されていました。ソーシャルゲームにも関わらず他プレイヤーの存在感の希薄さはすでに述べた通りです。サービスが終了した今、自己という近景と彼女たちの世界という遠景の間に他のプレイヤーたちの存在や二次創作という中景を補完しないことでのみ、セカイ系としての構図を保ち続けることが可能なのです。解釈違い、推し被り、みんな殺す!!!殺せ!!!

 

……当然のことですが、それを続けることができる人を他者は狂人と呼びます。二次元に耽溺したキモ・オタク、自分の人生を生きない者、Papa Tutu Wawa脳、等様々な蔑称が浮かぶでしょうが、彼女たちの実在性を否定せず、なおかつキチガイにならずに済む方法は何なのか?

それはこのアプリケーションを通して得た経験をファン同士がシェアし合い、相対化する、ということです。類型としての経験は似通っているかもしれません。しかしこの経験を通して生まれた感情そのものはまぎれもなく諸個人固有のものです。我々にできることはシェアできる部分はシェアしとにかくこの経験を忘れないようにすること。イマジンし続けることなのです。

グレイトフル・デッドのギタリスト、ボブ・ウェアは当時のヘイト・アシュベリー界隈の精神的指導者のひとりだったニール・キャサディがメキシコの線路の上で死んだことを知らされた際、丁度彼をテーマにした曲、「That’s It For The Other One」を作っている最中でした。このことについてボブ・ウェアは「彼はメキシコで死んだが、彼の魂は俺のそばにいた」と、真顔でカメラに向かって答えていました。彼は同時にどこにでもいることができたのだ、とも。

そう、彼女たちも同じ時間に違う場所に存在することができたのです。我々が感じ、見つけさえすれば。

 

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第三者の審級が撤退したポストモダンの世界に取り残され、国家や宗教や民族性に準拠したロマン主義にすら帰属できない哀れな存在、そんな我々「オタク」が最後に何にすがっていたのか、それは決して互いが触れ合うことができないがゆえに成立しうる「純愛」という信仰だったのだと思います。

だが信仰の拠り所、スマホ内のモスクはあまりにも脆く崩れ去ってしまった。どんな感情もそれをもたらす前駆体も、体内であっという間に代謝され消え去ってしまう。死後の世界でフーリーたちが出向えてくれるなどというジハード主義者じみた醜悪なオタクドリームがあるとすればそれは唾棄すべきものでしょう。そもそもホモ・サピエンスの脳とそれに付随する自我や感受性は、100年以上の耐久性を想定して開発されていないのですから。

それにもかかわらず、ヒロインたちは輪廻転生についてよく言及し、愛の不滅を語ります。我々からすれば実に残酷な仕打ちとしか言いようがない。

我々は色々なことを忘れながらあと数十年生きて死ぬだけなのです。楽園の永続も、感情揺さぶるドラマツルギーも見出すこともできないこの世界で。

 

拡張少女系トライナリー」が一貫して伝えたかったこと、それは現実と虚構の重さが等質となり、唯一信用に足ると信じていた感情さえただの脳内物質の戯れでしかないと知った人間が、それでもなお魂の存在をどこに見出すのか、それでもなお何を選択するのかという形而上的かつ根源的で大きな問いだったのだと思います。

 

我々は空洞だ。だが確かにあの瞬間幸せだったのだ。