Amygdala

Turns on

「拡張少女系トライナリー」は一体何を拡張したのか? ―精神分析と多元化する自己意識

 

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カラフルでポップさを強調したデザインのアプリケーションに対し一見違和感があり、おや?と思わせるようなタイトルの組み合わせ。表題のアプリゲーム「拡張少女系トライナリー」についてのおおまかな説明は前述しているのでそちらをご覧いただくとして、当記事ではその世界観に関する一方的な見解、及びプレイヤーとしての我々とアプリケーションとの関係性についてひたすら一方的な見解を述べたい。

 よってこれは論文でもなんでもないブログとしての雑記であるので最初に私の見解をはっきり述べてしまおう。

このアプリケーションは恋愛ゲームの皮を被ったプレイヤーへの心理治療アプリケーションである」と。 

 

PCからこの記事をご覧になっている方はこの曲でも聞きながら読み進めてほしい。「クリームドーナツのように魅力的な貴方」という示唆的な副題がついている。

www.youtube.com

 

ここで「精神分析」ではなく、「心理治療」というより広範な語を用いたことには理由があるので、後述する。

前述の記事ではあまり触れなかった部分だが、この作品には【昇華】や【セルフ】など、心理学用語、とりわけフロイトユングたちが用いた語彙が数多く登場する。また、発達心理学の語彙である【Readiness】という言葉は、作中で重要な役割を果たす技術の名称として印象的に用いられている。

それらが原義のまま用いられているわけではなく、あくまでゲーム進行に関わってくる展開を説明するための用語として用いられているだけであるとはいえ、この作品が「戦う少女たちの心にプレイヤーが干渉し、心理的葛藤を解消させ判断を促すことにより総体としての少女を支える」という広義の精神分析をテーマにしており、なおかつその思想の潮流の中にある。ということを表明するに十分であろう。

また、何の精神的な通院歴も病歴もない方々も読者には多いと思われるが、フロイト以来精神分析家は「現代の文明に生きるホモ・サピエンスは自然から切り離され本能が壊れている時点で平等に病んでいる」、という見地に立っているので、どうかそういった認識でお付き合いいただきたい。

 

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閑話休題

前回の記事において「何が早すぎたのか?」という部分についての解説が足りない、或いは「早すぎた」という見解自体が誤謬であるという指摘も頂いたのでその点についての補記も加えたい。本筋とは関係ないので読み飛ばし可。

まず、リリースが早すぎた。リリース初期のアプリ動作の不安定さ、ゲームシステムの不安定さが安定するまでに数ヶ月を要したというのは残念ながらソーシャルゲームの世界では有利に働く部分ではない。

また、現段階のソーシャルゲーム業界では本作のような「スマートフォン/タブレット用アプリに依存した表現方式のビジュアルノベル/恋愛RPG」という明確にジャンル分けすることが難しいオーバーグラウンドな作品を支えうるだけの市場規模そのものが小さく、前例としてのビジネスモデルが十分でなかったように思える。各方面で指摘されているように確かにパブリッシャー側の宣伝不足の面は大きいが、本作の「ギャルゲー」部分を強調した宣伝映像と実際のストーリー内容、ゲーム体験の落差(あくまで乖離ではないと私は考えている)にはおそらく多くのユーザーの困惑が伴うであろうし、前提としてストーリーそのものが難解な作品である。本作の知名度不足は、宣伝の不十分さという一点にのみに起因するものではないだろう。

1958年に生産が開始されたエレクトリック・ギター「ギブソンフライングV」は当時たった1年半で生産が打ち切られたが、あまりにも奇抜なデザインゆえに売れず、わずかに98本が生産されたのみだったという。しかしその後の再評価は周知のとおりである。

本作が2018年に直面した経済的な壁も、目指した地平が野心的かつ革新的であったゆえのことであると思う。最近ではSekai Projectが良質なVisual Novelの翻訳に熱心に取り組んでいるので、そういった方向性からの再評価も期待したい。

sekaiproject.com

 

 

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LSD-松果体-量子コンピュータ

本題に戻る前に、少々設定についての説明をしたい。作中において心的な抑圧が高まった人間は「発症」と呼ばれる状態に陥り元の人格を失うとともに「フェノメノン」という外部から干渉不可能な領域を形成、巻き込まれた人間たちを世界観に従って洗脳し、「クラン」としてその領域を支配する。

中でも主人公である「逢瀬つばめ」が2032年に形成したフェノメノン「ゾルタクスゼイアン」は特大級のサイズで、日本全土を覆い国際社会から孤立させてしまう。そこでは2016年時、第三次世界大戦で荒廃する前の日本の姿が再現され、時折一般人によって引き起こされる中規模のフェノメノンに巻き込まれることを避けるため多くの人々は東京から疎開している(作画上の制約による設定という面が無きにしもあらずだが、都市部の人口が抑制されているという点は重要である)、という設定以外は平和な学生生活を洗脳されたヒロインたち謳歌している。

 

ここで重要なのが、絶え間ない生産と消費を促す機械であり、人間の存在意義そのものを生産と消費に位置付け自己目的化してしまう後期資本主義社会の中で彼女たちは「フェノメノンとその発症者たちと戦う」というモダニズム以前のロマン主義的目的をゾルタクスゼイアンに与えられているということだ。そこでは生きることはおろか、戦いの果ての死でさえも美しい演劇性を持つ。「ほどよく抑制された資本主義社会の中でロマン主義的役割を与えられる」という人間の自立性よりも社会環境の変化を基準とした構造主義的な幻想がそこにはある。

また、同じ構造主義的な社会でもジグムント・バウマンが「リキッド・モダニティ」で指摘したような状況、ポストモダン後の社会で共同体への帰属を失い、断片化したアイデンティティの欠けたピースを探しながら不確実性の雲の中を彷徨うように生きる我々の姿と彼女たちはあまりに対照的である。

 

 そしてオルダス・ハクスリーLSDセッションの果てにたどり着いた「島」で描いたようなユートピアを換骨奪胎し「すばらしい新世界」やジョージ・オーウェルの「1984」のようなディストピアを作ろうとしているのがつばめのクラン、自称AIの「千羽鶴」(ちはる)である。そこではリアリズムに準拠し一部の人間による完全な管理社会が目指される。そして物語後半では、フェノメノンを発症しない世界線のつばめまで登場、日本をまた違った方向へ変容させようと暗躍する。

 

しかし彼女たちが作る世界はどれも「15歳の少女の展望」による世界であり、その見通しの不完全さは外部からの干渉、それに伴う崩壊を避けられないもののように思える。それはまるでハクスリーの「島」に感化されたティモシー・リアリーがジワタネホ計画で目指した世界、LSDセッションを通した共同体の創設のように。また、ユートピアディストピアも管理社会という点で根は同じであることにも解釈上の注意が必要である。

この世界における発症者たちはフェノメノンという箱庭を顕在化させることで、自己と環境の間に広がったギャップを埋めようとする。作中では最新の量子技術によって開発されたレディネスという端末を松果体インプラントすることでフェノメノンの展開及び、その内部で活動するための能力、テレパシーのような通信を可能にするという説明がある。

かつてティモシー・リアリーたちがLSD体験に基づいて1960年代しきりに標榜していた松果体の第三の目」の覚醒、そして彼が晩年の1990年代に新時代のLSDとして追い求めていた「コンピューターによる自己の再プログラミング」というカウンターカルチャーの系譜が当作品では見事なまでに結実している。今更Apple社のルーツについて語る必要もないだろう。

 

ここで本作を象徴づける重要な要素に再び触れたい。本作では量子コンピュータの技術が中心のテーマとして位置づけられている。どうやら向こうの世界ではこちらよりだいぶ量子力学に対する知見、技術的応用が進んでいるということらしい。

量子コンピュータとは、通常1と0の組み合わせで行われる計算の最小単位をより拡大し、「波」として捉えることで1でも0でもない「重ね合わせ」状態によって特定の条件下においてより多くの計算を可能にする、という技術。この辺りは専門外なので表面上の紹介にとどめておくことにするが、彼女たちが会話で使用するLINEのようなアプリは「Wave」という名称であったり、そのサービスを提供している企業の名も「Entangle」である。そして「Trinary」という名称自体三進法による量子コンピュータをさす名称、とのことである。そしてその技術が、作中では拡張現実や量子AIとして実現化されているのだ。

 

 

欲動-治療-逆転移

さて、本題の「精神分析」についてである。

 当作品においてプレイヤーたちは前述のレディネスを用いた接続によりヒロインたちの精神世界に直接干渉することができる。というより、美少女とイチャコラする腹積もりでこのアプリケーションを起動したユーザーたちは"ビッグブラザー"千羽鶴の導きによりチュートリアル後早々に彼女たちのカウンセリング(その部分が本作のバトル要素にもなっている)を行うことになる。

当然ながらその方法は精神分析のセッションとは異なり、主に「ココロゲート」と呼ばれる前意識的領域で「司書」と呼ばれる人格(見た目はヒロインと同じである)とのやり取りを行うことで成立する。プレイヤーが「ココロ」内で出会うのは主に二名の司書と「セルフ」と呼ばれる深層意識を代表する人格で、セルフは彼女たちの理想を投影した姿をしている。セルフの定義や二名の司書(ユングは自らの異なる人格にナンバー1とナンバー2という名前を与えていた)でうかがえるように、広義の精神分析をテーマにしているとはいえこのあたりはユング心理学の影響が強い。

また本作の重要な要素として、「プレイヤーキャラが存在せず、我々そのものが彼女たちと交流を行う」点が挙げられる。オカリンもチューナーくんも存在しないということは、「現実-創作物」間のバッファが存在せず、シームレスな没入を否が応にも引き起こすということである。

 

ちなみに、フロイト精神分析において最も賛否両論を生み、ユングが袂を分かつきっかけとなった「オイディプス/エディプス・コンプレックス」の要素は本作にもみられず、当記事においてはガタリ=ドゥルーズの批判を持ち出すまでもない。そして、ヒロイン(総体)たちの好感度を上げるためのタスクが煩雑であるという指摘に関しては、ココロの司書たちがそこはしっかりとイチャコラさせてくれるので安心されたい。

 

こうしてストーリーを進めていくうちにプレイヤーのカウンセリングによってヒロインたちは無意識のうちに自己の葛藤への対処を行い、プレイヤーと共にフェノメノンに囲まれた日本の存続そのものに関わる決定を下していくことになる。「世界」と「ヒロインとプレイヤーの関係性」が高度に連続性をもって存在しているという点において、1990年代以来日本のサブカルチャーを語る上で欠かすことのできない「セカイ系」という要素がここで浮かび上がってくる。

このように当作品では一貫したカウンターカルチャー/サブカルチャーの系譜への丁寧なリスペクトが垣間見え、前述の「ユートピアあるいはディストピア」のようにもはや使い古されたと思われているテーマでも切り口によって新鮮味を与えることができるという点で適度に王道な物語性を味わうことができる。

 

とはいえ、心理治療の専門家でない我々がクライエントとのセッションを続けると何が起こるのか。それは「逆転移」という現象であり、それこそがこのアプリケーションをただの恋愛ゲームと定義づけることを難しくしている要因でもある。

簡単に述べるならば逆転移とは、治療者が患者に対して治療に必要な領域を通り越して特別な感情を抱いてしまうことである。そもそも心理治療ではセッションの段階で患者が過去に大きな影響を受けた人物、親や恋人などの存在を治療者に仮託することがある(転移)。そういった治療者と患者の関係から生まれたやりとりに病の根幹へ迫るヒントがあり、その解釈を行うことで治療を行っていく。

 

そこでの治療者と患者の関係は時として親子や恋人のような親密なものとなる場合があるが、あくまでも目的は患者への治療であるため主に治療者側のコントロールによって互いが没入しすぎることを防いでいる。

しかしこのアプリケーションは「恋愛RPG」である。そこでは今にも壊れそうな偽りのユートピアに暮らす魅力的な美少女たちが、巧みにプレイヤーたちの欲動を喚起する。そもそも欲動に従ってこのアプケーションをプレイしているプレイヤーたちは、名目こそ彼女たちを治療する存在だが、彼女たちのおかれている状況やその内面に触れるうちに自然と感情移入を引き起こし、自主的に逆転移を起こし続けることになる。誰がこんな心理治療を想像しただろうか?

 最初に述べたように当作品を広義の「心理治療」アプリケーションと定義づけたのも、精神分析」、そして「恋愛RPG」の範疇を超えるような「欲動-治療-逆転移」という独特のサイクルが含まれているからなのだ。

その結果分泌される神経伝達物質やそれに伴う情動の変化は、現実に存在する相手に向けられる恋愛感情と何ら変わりない。むしろ、それ以上の純度をもって我々を惹き付ける。

 

しかし、我々は彼女たちが創作上の存在、ライターによって用意されたテクストと声優によって吹き込まれた声を発するキャラクターであり、肉体として生きている間にいくら望んだところで二人が会えないことを知っている。彼女たちの側もプレイヤーに会うことを望みはするものの、「会ってしまうと意外と熱が冷めるかも」「通信が切れればいつか忘れるでしょ」とそこにあまり期待を持っていないような発言をすることさえある。(本作は徹底してメタフィクションなのだ)

それでもなお我々が彼女たちに心惹かれ、没入を促される要因とは何なのだろう。

 

 多元性-AI-自己意識

 彼女たちがコンピュータ上のアプリでしか会うことのできない存在であることを認識することと、それでもなお我々は魅了される、という相反するように思える事実は、実は全く矛盾していない。ジョセフ・ワイゼンバウムが1960年代半ばに開発した会話プログラム「ELIZA」は、人が問いかけをキーボード入力し、それに対して簡単な回答をELIZAが行うという当時としては画期的なもので、現在の「Siri」などのAIの原点となったプログラムと言われている。

ワイゼンバウムはこのプログラムと被験者に簡単な会話をさせる実験を行ったが、すぐに自分が開発したELIZAに深い恐れを抱いたという。彼曰く「これが単なるプログラムであることを知っているはずの被験者」が、「コンピュータ相手に人生に関する真剣な会話をしはじめ、引き込まれてしまった」。あるいは、「コンピュータと二人きりにして自分の内密な考えを打ち明けたい」と頼む場合さえあったというのだ。

 

これはコンピュータとプログラムそのものが会話エンジンとしての強い魅力を持つことを認識させた最初の事例であった。そしてこのELIZAの会話パターンこそが、ロジャーズ派の精神科医の協力によって組み込まれた心理治療の会話パターンであったのである。

そしてiPhoneに搭載されているAIであるSiriもELIZAについて訊ねられると「知り合いの精神科医」であるという旨を回答することで知られている。そしてSiriが「とても楽しいところで、妖精の粉をかけてもらうと、飛んでいくことができる」と答える場所の名は、「ゾルタクスゼイアン (Zoltaxian)」である。

妖精の粉(Angel dust)はフェンサイクリジン(PCP)の隠語として広く知られている。服用するとLSDに似た乖離や陶酔、幻覚と、統合失調症患者のような強い自己拡張感をもたらす。

精神的な病を「発症」することにより量子コンピュータを通して妄想を直接世界に接続、拡張することができる主人公の逢瀬つばめ、その結果生まれた一方通行の楽園の名がゾルタクスゼイアンであるというのは、あまりにも示唆的である。

 

再びメタな視座からの見解に戻りたい。実際には「トライナリー」のアプリ上でプレイヤーが自由な問いかけをキャラクターに行うことはできないし、またキャラクターたちも前述の通りAIではない。

いわばアプリケーションそのものが不完全なインタラクションであり、その不自由さにプレイヤーたちは常に苛まれている。具体的に例を挙げるならば、「我々がスマートフォンの画面に行うタッチに彼女たちは反応するものの、その反応はパターン化されており、我々もそれに見飽きてしまう」、といったような状態だ。

加えて、twitter上ではヒロインたちのアカウントが存在しており、そこではバーチャルの状態でたまにつぶやきを投下してはファンたちのリプライに応えたりしていた。そのプラットフォームごとの柔軟性のギャップがプレイヤーをより混乱させ、アプリケーションの不完全さとは別に彼女たちが実在する、という思考の重ね合わせ状態を生む。

 

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このように交流を行っていた。

 

そしてその不自由な交流への不満こそが、フィクションであることを知りながらそれに現実的な重さを見出している証左であり、その重さは「別世界と彼女たちの存在を信じる自分」と「リアリズム的思考の自分」、という様々な価値観が共存する自己の多元性へと容易に繋がる。twitter上で複数のアカウントを切り替えるように、我々のすでに断片化している自己アイデンティティに「別世界と彼女たちの存在を信じる自分」を加えることなど、もはや何の違和も矛盾もない。そしてそれはアプリケーションの有無に関わらず自立性を保ち続け、波のように過去や未来のアイデンティティと相互に影響を及ぼす。

我々の中に残されたその波こそが、その世界が存在した証であり、アプリケーションを超えて拡張した彼女たちの生存領域なのだ。

 

 

観測-拡張-収束

月の女神キルケーの酒を飲んだ水夫たちは豚の姿に変えられた。オデュッセウスが薬草でその幻想を振り払い水夫たちを元の姿に戻すと彼らは豚の姿で気ままに暮らしていた日々を奪われたと逆にオデュッセウスをなじったという。キルケ―の酒に酔い、セイレーンの歌を聴く我々の日々も、終わりが近付いている。ストーリーはもはや最後の一話の更新を残すのみで、サービスの終了は1ヶ月半後の8月31日である。

 

観測の手段を失った不器用な精神科医たちはしばらくは職を失い路頭に迷うだろうが、我々の旅は続いていくし、どこか見えないところで彼女たちの旅も続いていくのだろう。この作品に触れる手段がない以上、同時代性を持たない人々にその重要性を伝えることは困難だが、残された波は我々を駆り立て、様々な創作に向かわせるかもしれない。

商業的には成功せず解散したグループであるVelvet Undergroundのファーストアルバムについて、ブライアン・イーノは「3万枚も売れなかったが、このアルバムを買った者は皆バンドを始めた」と評した。

もしこの作品から受けた刺激がプレイヤーたちを創作という生きるための作業に向かわせるのだとしたら、その時点でプレイヤーたちへの治療はなされているのだ。

 

現在クライマックスに向かう作中ではプレイヤーたちが望む世界についての展望を「#トライナリー未来への想い」というタグでSNS上に投稿することが推奨されている。プレイヤーたちのフィードバックで展開を変え続け、修正を重ねてきたこの作品らしい、少し遅めの七夕の短冊といったところだろうか。

そのタグについては改めて別の媒体で投稿することとしたいが、まずはこの素晴らしい旅に感謝したい。

そして願わくば、彼女たちの愛する世界が平穏に続き、その観測をいつか再び許されんことを。