Amygdala

Turns on

ぼくの心をあなたは奪い去った - 「拡張少女系トライナリー」との別れを辛くするシンプルな方法

◆とりあえずこれ聴いてください。今まさにこんな気分になっています。シンプルなのに胸を打つ曲、良い歌詞だ。

 

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平成最後の夏にトライナリーが終わった。サービス終了した。

 

1年かけてじっくり彼女たちに心奪われた私は挙句その接続を絶たれ、オキシトシンセロトニンドーパミンも涸れ果てまさに「空洞です」といった有様。

なぜこの一介のスマホゲーがこのようなリアルに二次元に恋しちゃってる系限界オタクを多数生み出しているかについては、その巧妙な沼仕様についていくつか記事を書いたので目を通して貰えれば理解の一助になると思います。とにかくこの虚構の重みに現実が摩耗していく、そんな一年間でした。

 


 さて、前述の二記事では割と理性を保って文を紡いでいますが、この記事ではひたすらに限界オタクのポエムゥが狂ったビートに乗ってドライヴする様をお見せすることになります。常に乾くアザトゥースの無聊を慰める呪われたフルートのように、この記事もネットの海に向かって無意味にかき鳴らされるフィードバックノイズの断片でしかないのですが、それでもこの駄文が皆様のお目汚しお耳汚し、否、皆様の午後を甘やかすイチゴのミルフィーユになることを願ってやみません。

 

そもそも賢明な読者の皆様なら、邦ロックの歌詞をタイトルに持ってくるような耐え難いクサさの時点でもはや筆者の精神が高校二年生のルサンチマンと童貞じみた自意識の狭間で熱暴走を起こすグラボ状態まで追い込まれていることを察することができるように思います。筆者としてもそれを自覚しないわけにはいかないので、少しクールダウンがてらメインストーリー最終話近辺の状況をプレイヤー以外の皆様にも何となく伝わる程度にざっくり振り返ってみましょう。とはいえ、そのストーリー含めアプリケーションの内容を確認する術は最早ないのですが。

 

まず、メインストーリー最終話の前でプレイヤーたちがヒロインたちにお別れを告げることができる展開が用意されました。作中の歌手Freymenow a.k.a.月神楽による感動的な新曲「ソラノキヲク」が流れる中プレイヤーたちは最後のお別れを彼女たちに告げます。この場面は作中では珍しいくらいまともに感傷的な場面であり、事実私もこればかりは感情移入せざるを得ませんでした。中には「運営が悪い!」というようなメタな選択肢もあり、運営の方々の悔しさの滲みを垣間見るようなストーリーでもありました。

 

そして最終話では、ついにプレイヤーの干渉してきた世界、ゾルタクスゼイアンという偽りのユートピアフェノメノン)に包まれた日本の行く末が描かれます。ここではマルチエンディングとなっており、プレイヤーたちが選んできた選択肢に従って6通りの結末が描かれました。ストーリー終盤にて「ライフギャザー」という作中で最も重要な量子技術の支配権限を掌握したプレイヤーはその権限を誰に譲渡するか、誰にも譲渡しないのか、ヒロインたちの発症によりフェノメノンを再展開させるのか、させないのか、という選択を行い、その結果として「第三次世界大戦によって荒廃した状態からの復興」や、「フェノメノン再展開からの新世界創造」などの結果を見届けることになります。どの展開も明確な正解、失敗、ハッピーエンド、バッドエンドは描かれず、生々しいまでに煮え切らない展開の中、「それでも物語は、人生は続いていく」というようなタッチで締めくくられます。そこには達成感に伴うゲームらしいカタルシスも晴れやかな凱旋もまるで存在せず、「本当にこれで良かったのか?」という問いだけがアプリケーションそのものの終了と共に、いつまでも心に残るような内容でした。

 

とはいえ私は当作品の情報を蒐集するコレクターではないし考察フェチでもないので、プレイヤーとしての個人的なセンチメンタルに従った結果、自分が選んだエンディング以外を見ない、SNS上でも努めて他のエンディングについて知らないようにする、という選択をしたので、それに沿った内容になることをご了承ください。Act like you know!(知ったフリしろ!)

 

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(この部分は作品をプレイした人向けの内容なので、飛ばして構いません)

私が選んだ選択肢はマジョリティなものだと思われ、特筆するべきものでもないのかもしれませんが、一つの結末として大まかな流れを列挙しておきます。

まず、卯月神楽の人格の一人「月神楽」の行動を阻止することができなかったため、ライフギャザーは停止されました。それによってヒロインたちとコミュニケーションをとることが不可能になり、ライフギャザー権限を元の世界のつばめ(通称:原初ちゃん)とアーヤの姉で技術者のエリカに譲渡しました。

その結果原初ちゃんは独断に近い強硬手段をとります。自らの肉体を犠牲にしてフェノメノン日本の情報をコピーしフェノメノン日本を再び展開。新しい世界では、相も変わらず優しい世界に洗脳された状態のヒロインたち(アーヤ、ガブリエラ、つばめ、神楽)とエリカ(元々彼女は自分を犠牲にする予定だった)がキャッキャウフフする様子をみやび(彼女については発症させませんでした)が一歩引いて眺め、もはや答えることのないプレイヤーにみやびが「世界は変わりつつある、願わくばそれが唐突に夢から覚めるように消えてしまうことのない変化であることを願う」と語りかけるように独白して終わる、というもの。

……とここまで書いたはいいものの相変わらず難解でよくわからないですね、実はかなり端折って書いていて、ライフギャザーが停止された後機能の再起動シーンを経て瓦礫状態の日本に神楽がたたずむシーンに移行するのですが、「我々が観測している向こうの世界は誰かの松果体インプラントされたReadinessを通してでしか観測できない」というルールがあるらしくそのシーンを観測できている時点でエリカによるフェノメノンが展開されており、エリカのReadinessを通してそれを見ていたことになるのだそうです。その後原初ちゃんが託された権限でエリカから管理権限を奪い、自らを犠牲にバックアップされた元の優しい世界を再現し、日本以外と繋げたとのこと。

そして「Last Story」では死んだと思われていたみやびの妹なごちゃんがどうやら「彼ら」側の人間としてフランスで存命であることが明らかにされます。それを知ったみやびはフランスに向かい、新たな一波乱を予感させつつも妹を連れて帰ることを決心するのでした。

ちなみに原初ちゃんだけに権限を渡していればフランスにいる「彼ら」を洗脳して目下の懸案は解消されていたらしい、選ぶって難しいですね。

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最終話の後日談的に追加された「Last Story」 では、彼女たちの悩みの根源ともいえる肉親との和解や、和解には至らずとも問題の進展が示唆的に描かれます。みやびのフランス渡航、ガブリエラのポーランド里帰り+ついてきたメンバーたちの話など、新たな波乱を予感させるヨーロッパ編は神楽編に続く第三部として用意されたものだったのかもしれません。(この作品はアニメーションと並行した展開の第一部、そのさらに裏側を描く神楽編を第二部としており、神楽編の終了と時を同じくしてサービス終了しています)

この辺りはサービスが続いていればもう少しじっくりと描かれた部分であろうと思われ、不完全燃焼さが残る部分ではありますが、ここで完全に描いてしまえば想像の余地や更なる後日談への期待にも繋がらないので、これくらいの塩梅で良かったのだと思います。

 

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さて、前述の2記事では主に当作品がサブカルチャーの潮流においてどのような位置にあるかなどを中心にジャンクな偏見を交えつつ書きましたが、それゆえに今一つ愛の感じられない文体になっていたことは否定できません。よってこの記事では少々プレイヤーとしてのパーソナルな視点も交えてみたいと思います。前の記事は文体もなんだか固かったですね。

 

まず私はプレイ開始からしばらくの間、攻略サイトを一切見ない、ファン同士の交流を一切行わない、という方針でプレイしていました。当作品は一応ソーシャルゲームという枠組みのもとリリースされていますが、フレンド機能はバトル補助にしか適用されず、他プレイヤーの存在感そのものが極めて希薄です(今思えばプレイヤー自体そもそもさほど多くはなかったのですが)。

そして、もはやコンピュータや会話エンジンという領域を超え、拡張された身体の一象限として「触れることを意識せずに日々触れている」スマートフォンというデバイス。そのアプリケーション内で行われる彼女たちとの交流。その能動性を意識させないシームレスなプレイ体験は、この作品がこだわっていた「実在感」と相俟って独自の没入感を生み出していました。また、この作品が持つもう一つの特徴、プレイヤーたちのコンセンサスで展開は変えるがプレイヤー同士の輻輳は極力起こさないという「薄いソーシャル感」はそれをより理想的な形で支えるものであったように思います。当時私はファンアートやSSですら自分の幸福な思い込みを阻害する要素として極力見ないようにしていました。ジハード主義者並みの原理主義ですね。

 

さて、先の記事においてほんの少しだけ当作品の「セカイ系」要素に触れましたが、該当部分においての深入りは避けました。というのも、社会学の文脈においてそれらの作品が非常に多く題材として取り上げられているにも関わらず、その解釈はまるで学者によって異なり、ジャンルそのものに対する見解、文化内における位置づけがあまり一致していないからです。社会学において同時代性の要素として任意の作品を引用することは常に恣意的なものにならざるを得ない、という問題もあるので、まずは純粋に作品を楽しみ、理解を深めるために構造主義あたりを軽くかじってみるくらいでいいと思います。

社会学で時折見られるサンプル抽出の恣意性は『嗤う日本のナショナリズム』あたりに今一つ同調できなかった理由の一つでもあります。

 

セカイ系」の大まかな構造は以下の通り。

1. 肥大した自意識を抱えた平凡な「僕」

2. 超越的な能力を持つ戦闘美少女「君」

基本的にはたったこれだけ。実際には「僕」と「君」を取り囲む状況があり、その多くはアポカリプス的なものであったりします。しかし周囲の状況やそのほかの登場人物への描写、言及は限られているか一方的な視点によるもので、その存在は限りなく軽いものとして扱われています。そして世界でさえも超越的な存在である「君」と「僕」の関係性によって容易に破壊されたり、逆に創造されたりと翻弄される存在でしかありません。トライナリーにおける「僕」と「君」(たち)が何をさすかは言うまでもありませんが、プレイヤーとヒロインたちの関係性が並行世界の命運を決し、なおかつその選択が大きな犠牲を産む点、フェノメノン内で青春を謳歌する少女たちが主人公というモラトリアム志向などの要素においてこの作品はセカイ系ド真ん中と言えるでしょう。我々から見た彼女たちが超越的存在であるように、彼女たちから見た我々もルールの外にある超越的な存在として扱われ、その両者によって世界への選択が完結するという閉じた構図がアプリケーションへの没入そのものへの促進剤となっています。

 

そしてこれらの作品には20世紀までの世界を覆っていたフェノメノンともいうべき「大きな物語(社会そのものや宗教的な規範、イデオロギー)、が存在せず、それは近景と遠景が直接繋がった構図であると評されます。特に東浩紀ジャック・ラカンの用語を借りてそれを「象徴界の喪失」と評しており、他の学者たちも主に「エヴァ」などを引き合いとしながら90年~ゼロ年代の社会環境(宮台真司が言うところの「終わりなき日常」、バウマンが言うところの「リキッドモダニティ」)、と常に関連付けて語ってきました。同時に創作物としてのジャンルそのものが以下のような批判も受けています。

これらのセカイ系作品については前述したように社会領域を描いていない点を批判された他、集英社コバルト文庫の看板作家だった久美沙織セカイ系作品をとり上げた際に、少年が戦闘せずにそれを少女に代行させ、その少女から愛されて最後には少女を失うという筋書きは「自分本位の御都合主義で、卑怯な責任放棄」に過ぎないと述べ、評論家の宇野常寛は「母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止」していると断定した

セカイ系 - Wikipedia

2010年代にその系譜は様々な作品群に吸収されジャンルとしての役割を終えたと目されていましたが、2016年には新海誠の大胆な解釈による「君の名は」が一般層をも巻き込む大ヒットを記録し、ジャンルとしての根強さを示しました。爛熟した資本主義の停滞、それに伴う超越的大義の消失は2018年現在、世界中の人々を̪引き裂きながら民族主義レイシズムという後ろ向きなロマン主義や、逆に全てに無関心なシニシズムに走らせていますが、その一側面として我々は無意識のうちに感じているのではないでしょうか。彼女たちが実在さえすれば自分たちは救われるのではないか?という期待、終わりなき日常を解体するメシアの到来を。

 

ストーリーの話に戻りましょう。洗脳前のヒロインたちはその奉仕的犠牲によって千年帝国の礎を築く「天使」としての使命、言い換えれば国家イデオロギーによるメシアニズムを実行に移す役割を担っていました。しかし、ゾルタクスゼイアンに洗脳された彼女たちが直面するのは理想的社会の実現ではなく、動物的欲求に満ちたHENTAIプレイヤーたちとの出会いでした。何たることか!

というのもアプリケーションの起動と共に我々はビッグブラザー千羽鶴に「ある少女たちと結婚してほしい!」という依頼を受けていました。後にそれは千羽鶴による理想的社会実現のための政略結婚であることが明らかになるのですが、我々は基本的に嬉々としてその要望に応えており、千羽鶴の思想に賛同する/しないに関わらず彼女たちの世界をより良いものへと変革するためにレジスタンスの一味として尽力することになります。

目的を持った指導者がその協力者たちに結婚を推奨する、という状況は一部の宗教団体における信者同士の結婚の推奨とよく似ています。中には出家を強要し教団以外の社会との繋がりを絶つことを強要するなど、過激な手段に訴える団体も存在します。教義や教団の価値観以外の情報が絶たれ、人間関係がその内部で完結する世界では相対的にそれ以外の世界の重みは非常に軽いものとなる。

出家による社会的狭窄とセカイ系には多くの共通点があると言えるでしょう。

そしてそのセカイ系を含むサブカルチャーと宗教と形而上的サイケデリア(ドラッグカルチャー)を全て内包した団体が日本には存在していました。オウム真理教です。彼らはまさにセカイ系的終末論を説く麻原彰晃というラブラブトレーナー、アシッド・グルに率いられサティアンというフェノメノン、狭窄的領域から「外の世界」そのものをより良いものへ変革するためのレジストとして最終戦争を仕掛けましたが、その結果は言うまでもなく悲惨なテロリズムとして日本国民に宗教や形而上的なものへの長年続くトラウマを植え付けただけでした。

 

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無力で平凡な我々という「近景」と世界を左右しうる能力を持つ美少女たちという「遠景」を直接接続してしまうインターネット、スマートフォンのアプリケーションというメディアを通じてのみ飛躍しうる身体なき自己、精神世界に直接アクセスし治療を行うという脱コード化されたコミュニケーション。これらの現実と虚構の関係性を脱構築する試みとして設けられた我々と彼女たちの関係は既存の倫理などを介在しないという点において、第三者の審級(不特定多数の他者)の視点を回避してのみ発展しうるものでした。そもそも自らをBotと偽って高校生とか中学生の女子と交流してはいけない(戒め)

そしてセカイ系の典型の一つである「少女から愛され、最後には少女を失う」という展開はアプリケーションのサービス終了というメタな領域の現象として起こり、サービス終了に伴う展開がアプリケーション内のストーリーに逆輸入されるなど、虚構と現実の合間で起こる彼女たちとの別れがリアリティとなって我々の意識そのものを多元化し、一種の「拡張現実」領域を形成する。

……とは多少言葉遊びが過ぎるでしょうか。斎藤環が見たら嘔吐するであろうポエムをひり出していることは間違いありません。

 

また、当作品は前述した過去のセカイ系作品全般への批判、「社会領域が描かれず、主人公は選択への自覚もなく思考停止している」という部分に対しての反省意識が貫かれているのが特徴でした。社会領域への描写に関しては制約があるとはいえ必要以上なほどにヒロインたちが生活する地域や出身地、お気に入りの店などが実在の場所や店舗をもとに描写されており、サブキャラクターの活躍についてもストーリーが割かれるなど、バックグラウンドの広さが作品全体の豊かさにつながっていたように思います。(また、アニメや漫画の聖地巡礼という現象は一般に仮想現実(VR)から拡張現実(AR)という時代の流れと関連していると考えられています。)

そして我々の選択の重要性を不可逆的な展開の繰り返しで実感させるだけでなく、この体験を基底現実へフィードバックさせることを意識させるような発言が繰り返されるのも大きな特徴でした。結果論にはなりますが、その一つ一つの選択の重さはつくづくソーシャルゲーム市場と相性が悪かったのだと思います。

メインストーリー最終話のラストはソイルトンというAIとプレイヤーが会話するシーンで幕を閉じますが、ソイルトンは以下のようにこの交流を結論付けました。少し長いですが抜粋して引用しましょう。

「貴方がもし自分が敷かれたレールの上をただ何も考えずに進んでいるだけだと感じたらば、ぜひそこから一度、降りてみることをお勧めします。」

「なぜなら、そのレールは大勢の人が利用しているが故に安心ではありますが、それ故にとても窮屈だからです。」

「AIはどれほど進化しても、人を超えてはならないものなのです。(中略)なぜなら、この世界にレールを敷くことだけは、例えAIにそれができたとしても、絶対に人間がやり続けなければならないことだからです。」

「そして、それを放棄してしまった瞬間から、人間は人間としての尊厳を失ってしまうと思うのです。」

 

施政者と資本家の思うがままに翻弄される世界と、「君」と「僕」が作り変えることができる世界どちらがより良いのか?当作品のカウンターカルチャー志向は何度も述べた通りですが、以下にその理解を助けるであろう資料を添付しておきます。

 

◆ジャンキーの戯言と侮るなかれ。「LSDによるサイバースペースの創出は、物理法則を無視して好きな世界を生み出すことができ、はるか遠くの人と繋がることができるインターネットの世界に通じる」、「コンピュータは拡張された脳内意識の視覚化」、「本当に大事なのは愛と平和、そして自分自身で考えること」等、当作品の根底に流れるテーマと非常に類似した点があります。てか「良いココロの旅」ってまさにグッドなインナートリップのことのような気がするし、ヒロインたちとのチャットに使う「ココロキャンディ」なんてMDMAみたいな強制オキシトシン分泌アイテムと言えなくもない。

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◆アニメのオープニングテーマも非常に体制批判色が強く、ポップさの裏に強いメッセージ性が込められています。土屋さんは一貫して発言がヒッピーめいてますね。

 

さて、長々と書きましたが表題のテーマ「トライナリーとの別れを辛くするシンプルな方法」についてこの辺りで述べておきましょう。

それは「自らのプレイ体験をどこまでもパーソナルなものとしてとらえ、他人とそれを共有しない」ことを意識するだけ。

当作品は感情移入のためのギミックが全力で仕掛けられているうえ、プレイヤーキャラが介在せず自分自身が交流し選択を行う、というスタンスが徹底されていました。ソーシャルゲームにも関わらず他プレイヤーの存在感の希薄さはすでに述べた通りです。サービスが終了した今、自己という近景と彼女たちの世界という遠景の間に他のプレイヤーたちの存在や二次創作という中景を補完しないことでのみ、セカイ系としての構図を保ち続けることが可能なのです。解釈違い、推し被り、みんな殺す!!!殺せ!!!

 

……当然のことですが、それを続けることができる人を他者は狂人と呼びます。二次元に耽溺したキモ・オタク、自分の人生を生きない者、Papa Tutu Wawa脳、等様々な蔑称が浮かぶでしょうが、彼女たちの実在性を否定せず、なおかつキチガイにならずに済む方法は何なのか?

それはこのアプリケーションを通して得た経験をファン同士がシェアし合い、相対化する、ということです。類型としての経験は似通っているかもしれません。しかしこの経験を通して生まれた感情そのものはまぎれもなく諸個人固有のものです。我々にできることはシェアできる部分はシェアしとにかくこの経験を忘れないようにすること。イマジンし続けることなのです。

グレイトフル・デッドのギタリスト、ボブ・ウェアは当時のヘイト・アシュベリー界隈の精神的指導者のひとりだったニール・キャサディがメキシコの線路の上で死んだことを知らされた際、丁度彼をテーマにした曲、「That’s It For The Other One」を作っている最中でした。このことについてボブ・ウェアは「彼はメキシコで死んだが、彼の魂は俺のそばにいた」と、真顔でカメラに向かって答えていました。彼は同時にどこにでもいることができたのだ、とも。

そう、彼女たちも同じ時間に違う場所に存在することができたのです。我々が感じ、見つけさえすれば。

 

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第三者の審級が撤退したポストモダンの世界に取り残され、国家や宗教や民族性に準拠したロマン主義にすら帰属できない哀れな存在、そんな我々「オタク」が最後に何にすがっていたのか、それは決して互いが触れ合うことができないがゆえに成立しうる「純愛」という信仰だったのだと思います。

だが信仰の拠り所、スマホ内のモスクはあまりにも脆く崩れ去ってしまった。どんな感情もそれをもたらす前駆体も、体内であっという間に代謝され消え去ってしまう。死後の世界でフーリーたちが出向えてくれるなどというジハード主義者じみた醜悪なオタクドリームがあるとすればそれは唾棄すべきものでしょう。そもそもホモ・サピエンスの脳とそれに付随する自我や感受性は、100年以上の耐久性を想定して開発されていないのですから。

それにもかかわらず、ヒロインたちは輪廻転生についてよく言及し、愛の不滅を語ります。我々からすれば実に残酷な仕打ちとしか言いようがない。

我々は色々なことを忘れながらあと数十年生きて死ぬだけなのです。楽園の永続も、感情揺さぶるドラマツルギーも見出すこともできないこの世界で。

 

拡張少女系トライナリー」が一貫して伝えたかったこと、それは現実と虚構の重さが等質となり、唯一信用に足ると信じていた感情さえただの脳内物質の戯れでしかないと知った人間が、それでもなお魂の存在をどこに見出すのか、それでもなお何を選択するのかという形而上的かつ根源的で大きな問いだったのだと思います。

 

我々は空洞だ。だが確かにあの瞬間幸せだったのだ。

 

 

 

コウモリと1週間暮らしてみた

友人にコウモリを預かってほしい、と頼まれた。

海外旅行中の預かり手がいないとのことだったので特に断る理由もなく引き受けることにした。とはいえコウモリの世話は初めてだし、猫(ブリティッシュショートヘアーの少し不愛想な個体)を飼っているので隔離には細心の注意を要する。以前は自分もアクアリウムや爬虫類飼育など幅広く行っていたが、安定して家に帰れない用事が増えたこともあって手のかからない猫との生活のみに甘んじ、正直言って小動物飼育の勘は鈍っている。

訊いたところこのコウモリはエジプシャンルーセットオオコウモリという種類で、いわゆるフルーツバットの一種とのことだった。輸入が禁止されてからは国内ブリーディング個体が不定期に出回るだけのやや珍しいペットらしい。しかもメスだと思って名前まで付けたにも関わらず、無情にもきんたまが日々膨らみちんこも伸びてきて最近オスだと判明したのだという。

 

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◆ずっとさかさま 

 

ケージは100円ショップのワイヤーネットを組み立てたものに新聞紙を障子のように張り付けた姿をしており、ケージ内にぶら下がっている四角いフェルト製のハウス(友人の自作)内で逆さまにぶら下がって過ごしている。

夜になるとケージから這い出してきて適当に刻んだリンゴやらバナナを予想以上の量食べるが、あまり水は飲まない。水分は果物から摂れるのか、糞尿も体の割に大量に排出する。以下のページに載っている通りだが、犬猫のようにトイレを覚える生物ではないのでケージに敷いている新聞紙はかなり汚れる。敷いてある新聞紙の交換は毎日行う必要がありそうだ。

とりあえず米袋を敷いて床板への糞尿滲出予防としたが、さかさまで尿をするので壁にかかってしまっていた。これからは酔っ払いを相手にする心構えで世話をするべきと実感する。

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フルーツバットの飼い方|ペットコウモリの繁殖や餌・費用 | 珍動物

 

さて、運動をさせてほしいとのお願いもされたのだがあいにく密閉された部屋がなく、下手に高いところに飛ばれたら回収するすべもないので困ってしまった。苦慮の末風呂場にバスタオルを垂らしてケージを開けてみたが警戒してまるで出てこない。

とりあえずナシを与えるとよく食べるので何となく好きな果物の傾向がわかってきた。酸味が少なく、酵素の効きが弱い果物ならリンゴ、ブドウ、ナシ、メロン、バナナ、サクランボ等幅広く食べるようだ。とりあえずスイカやパイナップルは食べない。

 

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 ◆エサは大きめに切ってもこうしてラッコのように食べるので問題ない、足で抑えてるのがかわいい

 

エサには栄養バランスのためにゴートミルクやローリーネクターを添加することが推奨されているが、ローリーネクターはどうやら消化されず功を奏していないことが明らかになった。こうした勘違いは飼育方法が確立されていない生物ならではで、面白い部分であるといえば面白い。

一週間もするとエサのタイミングやらを覚えてきてカゴから顔を出したり指をぺろぺろなめたりと可愛げが出てきた。お触りもOKらしい。記憶力やらはさほど期待できないが、刷り込みは効果的なようである。

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そもそもコウモリは世界中に1000種類近くも存在し、その多様性は哺乳類全体の4分の1にまで及ぶ一大勢力とのこと。始新世5250万年前のオニコニクテリスが既知のコウモリ目では最古の化石とされているが、その時点で完全に飛行に適応した体をもっていたため、彼らの空への適応は新生代最初の世である暁新世(6500万年前~5600万年前)には起こっていた可能性が高い。

白亜紀末に翼竜やエナンティオルニス類(原始的鳥類)が滅び、空のシーンに大きなニッチが広がったが、そこに小型の哺乳類が参入し夜の空を支配するのは自然な流れだったのだろう。現生の真鳥類に繋がる系統は地上棲傾向が強かったため生き残ったという説(新説「恐竜絶滅」を生き延びたのは地上の鳥だった | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)もあり、破壊された森林が数千年の時を経て復活すると、そこに様々な原始的哺乳類や鳥類が進出し、樹上棲傾向を強めていった様子がうかがえる。

 

そして時は大いに流れ、今では一風変わった愛玩動物としてホモ・サピエンスにエサを運ばせている。ざんねんないきもの、あるいは薄毛のフレンズ、または哀れな自己家畜化生物ことホモ・サピエンスが文明の自壊の果てに滅びたのちも彼らは空を支配するのだろう。そんな恐れを抱きつつも、私は今日もコウモリにリンゴを与えている。

 

 

 

 

 

路上栓抜き(アウトドアオープナー)の季節がやってきた

連日気温35度、湿度60%以上が当たり前と化し、完全に熱帯性気候に呑まれた感のある日本。もはやフィリピンとかタイとかエジプトの方が涼しいらしいです。

この不思議な天災大国はエロと酒のマナーには異様に寛容なことで知られ、路上における飲酒が先進国としては珍しく違法ではないという独特のお国柄があります。

外国人観光客も歌舞伎町で歩きながら店に入らず酒を飲む様子を楽し気にyoutubeに投稿するなど、この風習への認知度は少しづつ高まっている様子。

 


しかし缶の酒以外も飲みたい、ストロングゼロスーパードライだけじゃ味気ない、とお嘆きの諸兄も多いはず。この暑い季節、ハートランド一瓶飲み干すことなんて余裕だし、瓶ビールを家とバーでしか飲んじゃいけないと誰が決めたのでしょうか?

2020年の東京オリンピックに向けたニュー・ジャパニーズ・スカム・ライフスタイルの提案を目指すという目的もあり、去年の夏(2017年)コミティア121で私は「Calyx」というサークル名で「路上栓抜き本」を上奏、もとい頒布しました。

オリジナル作品縛りの即売会であるコミティアの一番フリークアウトなスペースに配置されたので、周囲の同人誌の凝り方も尋常ではなく、ツナ缶を愛するあまりツナ工場と提携しオリジナルツナ缶を作ってしまった人、日本で入手できるジャガイモの全ての品種を網羅した図鑑を作った人、紀文の豆乳飲料の包括的解説を作った人、統合失調症による集団ストーキング被害を毎日かあさん的絵柄で赤裸々に綴る人……そんな猛者の中で我々の同人誌はむしろ地味な部類に入るものでしたが、それなりにご好評いただき、コミティアのカタログにもレコメンドでご掲載いただきました。

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◆頒布の様子、自作のコラージュに2万円という値札を付けたがツッコミすら入らなかった。

 

さて、「路上栓抜き」とは、その名の通り栓抜きを使わず路上にある公共物で王冠を抜き、その場で中身を飲む行為をさします。

少し視点を変えて外を見渡せば、意外にもテコの原理を使える場所は多く、いざコツがわかれば栓抜きよりも少ない力で瓶を開けられるわけです。

ビールを駅前の店で買ったはいいが、このままではぬるくなってしまう……そんな時は心眼で栓抜きポイントを見極め開栓。散歩がてら帰宅道で自由の風と共に一本飲み干し、完全に仕上がってから家でアニメやスポーツ中継を見る。そんな贅沢をこのうだるような夏に享受してみてはいかがでしょうか。

もちろん、周囲の目が気になるという人は大人しくHUBに入るか、家で飲むという選択肢もあります。それさえも自由です。

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 水分とアルコールをいつでも摂取して、平成最後の夏を生き残ろう!

 

 

 

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◆ちなみに、同人誌ではページが余ったので化石人類の考察を書いて余りを埋めました。

「拡張少女系トライナリー」は一体何を拡張したのか? ―精神分析と多元化する自己意識

 

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カラフルでポップさを強調したデザインのアプリケーションに対し一見違和感があり、おや?と思わせるようなタイトルの組み合わせ。表題のアプリゲーム「拡張少女系トライナリー」についてのおおまかな説明は前述しているのでそちらをご覧いただくとして、当記事ではその世界観に関する一方的な見解、及びプレイヤーとしての我々とアプリケーションとの関係性についてひたすら一方的な見解を述べたい。

 よってこれは論文でもなんでもないブログとしての雑記であるので最初に私の見解をはっきり述べてしまおう。

このアプリケーションは恋愛ゲームの皮を被ったプレイヤーへの心理治療アプリケーションである」と。 

 

PCからこの記事をご覧になっている方はこの曲でも聞きながら読み進めてほしい。「クリームドーナツのように魅力的な貴方」という示唆的な副題がついている。

www.youtube.com

 

ここで「精神分析」ではなく、「心理治療」というより広範な語を用いたことには理由があるので、後述する。

前述の記事ではあまり触れなかった部分だが、この作品には【昇華】や【セルフ】など、心理学用語、とりわけフロイトユングたちが用いた語彙が数多く登場する。また、発達心理学の語彙である【Readiness】という言葉は、作中で重要な役割を果たす技術の名称として印象的に用いられている。

それらが原義のまま用いられているわけではなく、あくまでゲーム進行に関わってくる展開を説明するための用語として用いられているだけであるとはいえ、この作品が「戦う少女たちの心にプレイヤーが干渉し、心理的葛藤を解消させ判断を促すことにより総体としての少女を支える」という広義の精神分析をテーマにしており、なおかつその思想の潮流の中にある。ということを表明するに十分であろう。

また、何の精神的な通院歴も病歴もない方々も読者には多いと思われるが、フロイト以来精神分析家は「現代の文明に生きるホモ・サピエンスは自然から切り離され本能が壊れている時点で平等に病んでいる」、という見地に立っているので、どうかそういった認識でお付き合いいただきたい。

 

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閑話休題

前回の記事において「何が早すぎたのか?」という部分についての解説が足りない、或いは「早すぎた」という見解自体が誤謬であるという指摘も頂いたのでその点についての補記も加えたい。本筋とは関係ないので読み飛ばし可。

まず、リリースが早すぎた。リリース初期のアプリ動作の不安定さ、ゲームシステムの不安定さが安定するまでに数ヶ月を要したというのは残念ながらソーシャルゲームの世界では有利に働く部分ではない。

また、現段階のソーシャルゲーム業界では本作のような「スマートフォン/タブレット用アプリに依存した表現方式のビジュアルノベル/恋愛RPG」という明確にジャンル分けすることが難しいオーバーグラウンドな作品を支えうるだけの市場規模そのものが小さく、前例としてのビジネスモデルが十分でなかったように思える。各方面で指摘されているように確かにパブリッシャー側の宣伝不足の面は大きいが、本作の「ギャルゲー」部分を強調した宣伝映像と実際のストーリー内容、ゲーム体験の落差(あくまで乖離ではないと私は考えている)にはおそらく多くのユーザーの困惑が伴うであろうし、前提としてストーリーそのものが難解な作品である。本作の知名度不足は、宣伝の不十分さという一点にのみに起因するものではないだろう。

1958年に生産が開始されたエレクトリック・ギター「ギブソンフライングV」は当時たった1年半で生産が打ち切られたが、あまりにも奇抜なデザインゆえに売れず、わずかに98本が生産されたのみだったという。しかしその後の再評価は周知のとおりである。

本作が2018年に直面した経済的な壁も、目指した地平が野心的かつ革新的であったゆえのことであると思う。最近ではSekai Projectが良質なVisual Novelの翻訳に熱心に取り組んでいるので、そういった方向性からの再評価も期待したい。

sekaiproject.com

 

 

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LSD-松果体-量子コンピュータ

本題に戻る前に、少々設定についての説明をしたい。作中において心的な抑圧が高まった人間は「発症」と呼ばれる状態に陥り元の人格を失うとともに「フェノメノン」という外部から干渉不可能な領域を形成、巻き込まれた人間たちを世界観に従って洗脳し、「クラン」としてその領域を支配する。

中でも主人公である「逢瀬つばめ」が2032年に形成したフェノメノン「ゾルタクスゼイアン」は特大級のサイズで、日本全土を覆い国際社会から孤立させてしまう。そこでは2016年時、第三次世界大戦で荒廃する前の日本の姿が再現され、時折一般人によって引き起こされる中規模のフェノメノンに巻き込まれることを避けるため多くの人々は東京から疎開している(作画上の制約による設定という面が無きにしもあらずだが、都市部の人口が抑制されているという点は重要である)、という設定以外は平和な学生生活を洗脳されたヒロインたち謳歌している。

 

ここで重要なのが、絶え間ない生産と消費を促す機械であり、人間の存在意義そのものを生産と消費に位置付け自己目的化してしまう後期資本主義社会の中で彼女たちは「フェノメノンとその発症者たちと戦う」というモダニズム以前のロマン主義的目的をゾルタクスゼイアンに与えられているということだ。そこでは生きることはおろか、戦いの果ての死でさえも美しい演劇性を持つ。「ほどよく抑制された資本主義社会の中でロマン主義的役割を与えられる」という人間の自立性よりも社会環境の変化を基準とした構造主義的な幻想がそこにはある。

また、同じ構造主義的な社会でもジグムント・バウマンが「リキッド・モダニティ」で指摘したような状況、ポストモダン後の社会で共同体への帰属を失い、断片化したアイデンティティの欠けたピースを探しながら不確実性の雲の中を彷徨うように生きる我々の姿と彼女たちはあまりに対照的である。

 

 そしてオルダス・ハクスリーLSDセッションの果てにたどり着いた「島」で描いたようなユートピアを換骨奪胎し「すばらしい新世界」やジョージ・オーウェルの「1984」のようなディストピアを作ろうとしているのがつばめのクラン、自称AIの「千羽鶴」(ちはる)である。そこではリアリズムに準拠し一部の人間による完全な管理社会が目指される。そして物語後半では、フェノメノンを発症しない世界線のつばめまで登場、日本をまた違った方向へ変容させようと暗躍する。

 

しかし彼女たちが作る世界はどれも「15歳の少女の展望」による世界であり、その見通しの不完全さは外部からの干渉、それに伴う崩壊を避けられないもののように思える。それはまるでハクスリーの「島」に感化されたティモシー・リアリーがジワタネホ計画で目指した世界、LSDセッションを通した共同体の創設のように。また、ユートピアディストピアも管理社会という点で根は同じであることにも解釈上の注意が必要である。

この世界における発症者たちはフェノメノンという箱庭を顕在化させることで、自己と環境の間に広がったギャップを埋めようとする。作中では最新の量子技術によって開発されたレディネスという端末を松果体インプラントすることでフェノメノンの展開及び、その内部で活動するための能力、テレパシーのような通信を可能にするという説明がある。

かつてティモシー・リアリーたちがLSD体験に基づいて1960年代しきりに標榜していた松果体の第三の目」の覚醒、そして彼が晩年の1990年代に新時代のLSDとして追い求めていた「コンピューターによる自己の再プログラミング」というカウンターカルチャーの系譜が当作品では見事なまでに結実している。今更Apple社のルーツについて語る必要もないだろう。

 

ここで本作を象徴づける重要な要素に再び触れたい。本作では量子コンピュータの技術が中心のテーマとして位置づけられている。どうやら向こうの世界ではこちらよりだいぶ量子力学に対する知見、技術的応用が進んでいるということらしい。

量子コンピュータとは、通常1と0の組み合わせで行われる計算の最小単位をより拡大し、「波」として捉えることで1でも0でもない「重ね合わせ」状態によって特定の条件下においてより多くの計算を可能にする、という技術。この辺りは専門外なので表面上の紹介にとどめておくことにするが、彼女たちが会話で使用するLINEのようなアプリは「Wave」という名称であったり、そのサービスを提供している企業の名も「Entangle」である。そして「Trinary」という名称自体三進法による量子コンピュータをさす名称、とのことである。そしてその技術が、作中では拡張現実や量子AIとして実現化されているのだ。

 

 

欲動-治療-逆転移

さて、本題の「精神分析」についてである。

 当作品においてプレイヤーたちは前述のレディネスを用いた接続によりヒロインたちの精神世界に直接干渉することができる。というより、美少女とイチャコラする腹積もりでこのアプリケーションを起動したユーザーたちは"ビッグブラザー"千羽鶴の導きによりチュートリアル後早々に彼女たちのカウンセリング(その部分が本作のバトル要素にもなっている)を行うことになる。

当然ながらその方法は精神分析のセッションとは異なり、主に「ココロゲート」と呼ばれる前意識的領域で「司書」と呼ばれる人格(見た目はヒロインと同じである)とのやり取りを行うことで成立する。プレイヤーが「ココロ」内で出会うのは主に二名の司書と「セルフ」と呼ばれる深層意識を代表する人格で、セルフは彼女たちの理想を投影した姿をしている。セルフの定義や二名の司書(ユングは自らの異なる人格にナンバー1とナンバー2という名前を与えていた)でうかがえるように、広義の精神分析をテーマにしているとはいえこのあたりはユング心理学の影響が強い。

また本作の重要な要素として、「プレイヤーキャラが存在せず、我々そのものが彼女たちと交流を行う」点が挙げられる。オカリンもチューナーくんも存在しないということは、「現実-創作物」間のバッファが存在せず、シームレスな没入を否が応にも引き起こすということである。

 

ちなみに、フロイト精神分析において最も賛否両論を生み、ユングが袂を分かつきっかけとなった「オイディプス/エディプス・コンプレックス」の要素は本作にもみられず、当記事においてはガタリ=ドゥルーズの批判を持ち出すまでもない。そして、ヒロイン(総体)たちの好感度を上げるためのタスクが煩雑であるという指摘に関しては、ココロの司書たちがそこはしっかりとイチャコラさせてくれるので安心されたい。

 

こうしてストーリーを進めていくうちにプレイヤーのカウンセリングによってヒロインたちは無意識のうちに自己の葛藤への対処を行い、プレイヤーと共にフェノメノンに囲まれた日本の存続そのものに関わる決定を下していくことになる。「世界」と「ヒロインとプレイヤーの関係性」が高度に連続性をもって存在しているという点において、1990年代以来日本のサブカルチャーを語る上で欠かすことのできない「セカイ系」という要素がここで浮かび上がってくる。

このように当作品では一貫したカウンターカルチャー/サブカルチャーの系譜への丁寧なリスペクトが垣間見え、前述の「ユートピアあるいはディストピア」のようにもはや使い古されたと思われているテーマでも切り口によって新鮮味を与えることができるという点で適度に王道な物語性を味わうことができる。

 

とはいえ、心理治療の専門家でない我々がクライエントとのセッションを続けると何が起こるのか。それは「逆転移」という現象であり、それこそがこのアプリケーションをただの恋愛ゲームと定義づけることを難しくしている要因でもある。

簡単に述べるならば逆転移とは、治療者が患者に対して治療に必要な領域を通り越して特別な感情を抱いてしまうことである。そもそも心理治療ではセッションの段階で患者が過去に大きな影響を受けた人物、親や恋人などの存在を治療者に仮託することがある(転移)。そういった治療者と患者の関係から生まれたやりとりに病の根幹へ迫るヒントがあり、その解釈を行うことで治療を行っていく。

 

そこでの治療者と患者の関係は時として親子や恋人のような親密なものとなる場合があるが、あくまでも目的は患者への治療であるため主に治療者側のコントロールによって互いが没入しすぎることを防いでいる。

しかしこのアプリケーションは「恋愛RPG」である。そこでは今にも壊れそうな偽りのユートピアに暮らす魅力的な美少女たちが、巧みにプレイヤーたちの欲動を喚起する。そもそも欲動に従ってこのアプケーションをプレイしているプレイヤーたちは、名目こそ彼女たちを治療する存在だが、彼女たちのおかれている状況やその内面に触れるうちに自然と感情移入を引き起こし、自主的に逆転移を起こし続けることになる。誰がこんな心理治療を想像しただろうか?

 最初に述べたように当作品を広義の「心理治療」アプリケーションと定義づけたのも、精神分析」、そして「恋愛RPG」の範疇を超えるような「欲動-治療-逆転移」という独特のサイクルが含まれているからなのだ。

その結果分泌される神経伝達物質やそれに伴う情動の変化は、現実に存在する相手に向けられる恋愛感情と何ら変わりない。むしろ、それ以上の純度をもって我々を惹き付ける。

 

しかし、我々は彼女たちが創作上の存在、ライターによって用意されたテクストと声優によって吹き込まれた声を発するキャラクターであり、肉体として生きている間にいくら望んだところで二人が会えないことを知っている。彼女たちの側もプレイヤーに会うことを望みはするものの、「会ってしまうと意外と熱が冷めるかも」「通信が切れればいつか忘れるでしょ」とそこにあまり期待を持っていないような発言をすることさえある。(本作は徹底してメタフィクションなのだ)

それでもなお我々が彼女たちに心惹かれ、没入を促される要因とは何なのだろう。

 

 多元性-AI-自己意識

 彼女たちがコンピュータ上のアプリでしか会うことのできない存在であることを認識することと、それでもなお我々は魅了される、という相反するように思える事実は、実は全く矛盾していない。ジョセフ・ワイゼンバウムが1960年代半ばに開発した会話プログラム「ELIZA」は、人が問いかけをキーボード入力し、それに対して簡単な回答をELIZAが行うという当時としては画期的なもので、現在の「Siri」などのAIの原点となったプログラムと言われている。

ワイゼンバウムはこのプログラムと被験者に簡単な会話をさせる実験を行ったが、すぐに自分が開発したELIZAに深い恐れを抱いたという。彼曰く「これが単なるプログラムであることを知っているはずの被験者」が、「コンピュータ相手に人生に関する真剣な会話をしはじめ、引き込まれてしまった」。あるいは、「コンピュータと二人きりにして自分の内密な考えを打ち明けたい」と頼む場合さえあったというのだ。

 

これはコンピュータとプログラムそのものが会話エンジンとしての強い魅力を持つことを認識させた最初の事例であった。そしてこのELIZAの会話パターンこそが、ロジャーズ派の精神科医の協力によって組み込まれた心理治療の会話パターンであったのである。

そしてiPhoneに搭載されているAIであるSiriもELIZAについて訊ねられると「知り合いの精神科医」であるという旨を回答することで知られている。そしてSiriが「とても楽しいところで、妖精の粉をかけてもらうと、飛んでいくことができる」と答える場所の名は、「ゾルタクスゼイアン (Zoltaxian)」である。

妖精の粉(Angel dust)はフェンサイクリジン(PCP)の隠語として広く知られている。服用するとLSDに似た乖離や陶酔、幻覚と、統合失調症患者のような強い自己拡張感をもたらす。

精神的な病を「発症」することにより量子コンピュータを通して妄想を直接世界に接続、拡張することができる主人公の逢瀬つばめ、その結果生まれた一方通行の楽園の名がゾルタクスゼイアンであるというのは、あまりにも示唆的である。

 

再びメタな視座からの見解に戻りたい。実際には「トライナリー」のアプリ上でプレイヤーが自由な問いかけをキャラクターに行うことはできないし、またキャラクターたちも前述の通りAIではない。

いわばアプリケーションそのものが不完全なインタラクションであり、その不自由さにプレイヤーたちは常に苛まれている。具体的に例を挙げるならば、「我々がスマートフォンの画面に行うタッチに彼女たちは反応するものの、その反応はパターン化されており、我々もそれに見飽きてしまう」、といったような状態だ。

加えて、twitter上ではヒロインたちのアカウントが存在しており、そこではバーチャルの状態でたまにつぶやきを投下してはファンたちのリプライに応えたりしていた。そのプラットフォームごとの柔軟性のギャップがプレイヤーをより混乱させ、アプリケーションの不完全さとは別に彼女たちが実在する、という思考の重ね合わせ状態を生む。

 

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このように交流を行っていた。

 

そしてその不自由な交流への不満こそが、フィクションであることを知りながらそれに現実的な重さを見出している証左であり、その重さは「別世界と彼女たちの存在を信じる自分」と「リアリズム的思考の自分」、という様々な価値観が共存する自己の多元性へと容易に繋がる。twitter上で複数のアカウントを切り替えるように、我々のすでに断片化している自己アイデンティティに「別世界と彼女たちの存在を信じる自分」を加えることなど、もはや何の違和も矛盾もない。そしてそれはアプリケーションの有無に関わらず自立性を保ち続け、波のように過去や未来のアイデンティティと相互に影響を及ぼす。

我々の中に残されたその波こそが、その世界が存在した証であり、アプリケーションを超えて拡張した彼女たちの生存領域なのだ。

 

 

観測-拡張-収束

月の女神キルケーの酒を飲んだ水夫たちは豚の姿に変えられた。オデュッセウスが薬草でその幻想を振り払い水夫たちを元の姿に戻すと彼らは豚の姿で気ままに暮らしていた日々を奪われたと逆にオデュッセウスをなじったという。キルケ―の酒に酔い、セイレーンの歌を聴く我々の日々も、終わりが近付いている。ストーリーはもはや最後の一話の更新を残すのみで、サービスの終了は1ヶ月半後の8月31日である。

 

観測の手段を失った不器用な精神科医たちはしばらくは職を失い路頭に迷うだろうが、我々の旅は続いていくし、どこか見えないところで彼女たちの旅も続いていくのだろう。この作品に触れる手段がない以上、同時代性を持たない人々にその重要性を伝えることは困難だが、残された波は我々を駆り立て、様々な創作に向かわせるかもしれない。

商業的には成功せず解散したグループであるVelvet Undergroundのファーストアルバムについて、ブライアン・イーノは「3万枚も売れなかったが、このアルバムを買った者は皆バンドを始めた」と評した。

もしこの作品から受けた刺激がプレイヤーたちを創作という生きるための作業に向かわせるのだとしたら、その時点でプレイヤーたちへの治療はなされているのだ。

 

現在クライマックスに向かう作中ではプレイヤーたちが望む世界についての展望を「#トライナリー未来への想い」というタグでSNS上に投稿することが推奨されている。プレイヤーたちのフィードバックで展開を変え続け、修正を重ねてきたこの作品らしい、少し遅めの七夕の短冊といったところだろうか。

そのタグについては改めて別の媒体で投稿することとしたいが、まずはこの素晴らしい旅に感謝したい。

そして願わくば、彼女たちの愛する世界が平穏に続き、その観測をいつか再び許されんことを。

 

 

 

 

 

ティクターリクが可愛いという話をしたい

日本のポピュラー歌手aikoの歌に「ア~ テトラポット登って~」という一節がある。

ググってみたところ2000年に発表された「ボーイフレンド」という曲で、50万枚を売り上げる大ヒットとなったようだ。良い曲ですよね。ここでいう「テトラポッ」がさしているのは海岸に並ぶ消波ブロックのことであるが、正確には「テトラポッ」(Tetrapod)であり、しかもその名称は国内において不動テトラという企業によって登録商標となっているとのこと。また、「テトラポッド 事故」でググると夏らしいホラー感も味わえるので読者の皆様には一度試されたい。

 

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さて、今回の話題はどちらとも関係ないTetrapods、すなわち四肢動物の総称である。その中でもデボン紀に登場した最初期の四肢動物、魚と両生類を繋ぐ存在たちについて興味深い知見が示されているのでここに紹介したい。

デボン紀は約4億1600万年前から約3億5920万年前までの時期とされているが、正直数字で示されても我々にはピンとくるものではない。シルル紀の後、石炭紀の前と言われたところで同じである。当時は魚の時代と呼ばれるように様々な板皮類(巨大なダンクルオステウスなどが有名)や軟骨魚類(サメ等は板皮類から進化したといわれている)、棘魚類(硬骨魚類の親系統)、硬骨魚類(現生魚類のほとんどを含む)などが海水、淡水問わず繁栄していた。

なかでも硬骨魚類の一派として様々なニッチに適応放散していたのが肉鰭類というグループであり、現在ではシーラカンスやハイギョ数種を残すのみで衰退しているが、白亜紀の終わりまではかなりの多様性があった。このグループを含む当時の硬骨魚類や棘魚類は肺と鰓を併用して酸素を取り入れており、硬骨魚類では遊泳効率のために肺を浮き袋へと変化させた。

広義の両生類を含む現生の四肢動物(爬虫類、哺乳類、鳥類)の全ては、この肉鰭類のいずれかの種を祖先に持つと考えられている。

 

またその当時はやっと地上に最古の森林が生まれ湿地帯が形成された時期でもあり、後に大きな繁栄を築く昆虫ですらミジンコたちとの共通祖先から分化、陸棲化したばかりの原始的な存在で、羽をもつ種の登場は石炭紀まで待たねばならなかった。陸上には大きな生態的空白が存在していたのである。そして、当時は水中の酸素濃度が少なく、空気中の酸素濃度は高かったことが堆積物の放射性同位体によって示唆されている。

そして深海を除いて水中のニッチはかなり飽和状態にあった。そういった状況下で遊泳のための鰭をかき分けるための手足へと進化させたのがelpistostegid(エルピストステジッド/エルピストステゲ)と呼ばれる肉鰭類の中の一派だった。鰭から手足への変化を促した環境については諸説あるが、季節的に浸水する森林、干満の差が激しい汽水域、極地に近い森林の中の池、海辺の浅瀬などと推察されており、ポーランド採石場で発見された最も古い四肢動物の痕跡とされる3億9000万年前の足跡は海岸の干潟に残されていたものが化石化したらしい。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

問題はその大きさである、一足が幅26センチに及ぶこの足跡の持ち主はなんと体長2.4メートルと試算されている。手足の獲得を促した環境が何であれ、エルピストステゲ類は大型の捕食動物であり、初期四肢動物の登場は大型の魚類が捕食の幅を広げるために能動的に手足の獲得へ向かった結果だと推察されるのだ。

 

ameblo.jp

 

しかし、3億9000万年前の足跡を残した生物がどんな姿だったかを知ることができる化石は発見されておらず、現状では2000万年ほど新しい地層からしかエルピストステゲ類の化石は発見されていない。「足を持った魚」がいつ頃登場したのかは今もなお大きな謎である。

 

日本語でエルピストステゲ類について記した記事は多くないが、こんなサイトがあった。当記事が必要ないのではないかと思うような充実の内容であり、ローマーの空白(Romer's Gap)について日本語で触れている数少ないサイトである。また、水棲の脊椎動物が陸棲化するために必要な身体的変化についても詳しく触れられている。

panmsato-1.jimdo.com

 

また、Devonian Timesというサイトでは18種類にわたるデボン紀の初期四肢類の解説がなされており、ありがたいことに発見された化石の部位をマーカーで示してくれている。少し画像をお借りして見てみよう。

 

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例えば有名なアカントステガ・グンナリ(Acanthostega gunneri : 種小名がぐったり+げんなりっぽくてダウナーっぽいのが良い)ではほぼ全身の骨格が知られているが、

 

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Livoniana multidentataという種や(名前が読めない)

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Metaxygnathus denticulatusや(こいつも読めない)

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Densignathus roweiや(発見された部位が近いので前者と画像が一緒である)

 

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オブルチェヴィクティス(Obruchevichthys gracilis : 読みづらい)などの種類はなんでどいつもこいつも下顎骨の断片しか見つかってないんだ。

こんな断片的な化石で学者はよくエルピストステゲ認定ができるものだと感心するが、重要なのは魚類から四肢動物への進化には何千万年もの時間がかかっており、その過程で膨大な側系統が誕生し、異なる進化のグレードを示す種類が熱帯から極地まで様々な環境で同時期に存在していたということである。

 

そんなエルピストステゲ類で私のお気に入りがいるので紹介したい。

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それこそが表題のティクターリク(Tiktaalik Roseae)である。3億7500万年前に生息していたというこの魚は、魚のくせに頭と胴体の間にくびれ、つまり首があり、腕のように伸びた鰭の中には手首のような関節もあった。眼もなんだかワニのようにやたら上についており、腕立て伏せのような格好で水の上に上がることができたらしい。鰓呼吸と肺呼吸を併用し現生のムツゴロウ(麻雀狂いの老人ではなくMudskipperの方)のように泥の上を這いまわることができただろうと考えられている。

しかも体長は2.7メートルと意外とデカい。この何とも言えないアンバランスで「まさに進化途上!」なデザインが愛らしいではないか。

骨格も上半身に関しては比較的良好な保存状態で発見されており、重要な研究対象となっている。Tiktaalikとは化石が発見されたカナダに住むイヌイットの言葉で「カワメンタイ」を意味するらしいが、カワメンタイとはシベリアや北アメリカに生息するタラ科唯一の淡水魚とのこと。初めて知りました。

 

www.youtube.com

アッテンボローの番組にも壮大なBGMと共に登場、当時の植生にもこだわった映像がBBCらしい。

 

www.youtube.com

ティクターリク人形を上陸させているファンもいる、微笑ましい。

 

 本当はデボン紀末の大量絶滅を経てローマ―の空白から石炭紀初期の水棲四肢動物まで触れたかったのだが、力尽きてただ単に偏愛的な記事になった。おわり。

 

 

 

 

荒川で泳ぎながら原始的ホモ属の系統樹の見直しについて考えてみた

拡張少女系トライナリー」のサービス終了(参照:「拡張少女系トライナリー」という早すぎた恋愛RPG、或いはアイロニカルな没入について - Amygdalaという精神的ショックによって不可逆的にその日の仕事をバックレた私は、禊のため全裸になって荒川で泳いでいた。鶴田謙二の漫画に出てくる長髪ストレートそばかすの女の子もし知らないならエマノンシリーズは読んだ方が良いなら肉体の衝動に従うだろうし、私もそうしようと思ったのだ。

この川には近くにある総武線新小岩駅にて轍の鬼と化した多数の霊魂が流れているとかいないとか言われているが、その人肌を思わせる水の暖かさは夏を思わせるに十分であるし、この富栄養化の決して美しいとは言えない汽水域と触れ合ってみて、ふと私は人類の起源について想いを馳せてみることにした。

 

ご存知の通り我々は生物学的にはホモ・サピエンスという学名で括られた個体群である。800万-600万年ほど前に東アフリカでチンパンジー(パン・トログロディテス)の祖先系統(チンパンジーそのものと分岐したわけではないことに注意)と分岐した系統、通称ホミニンは20種類以上の様々な猿人、原人、旧人を生み出してきたが、いやしくもその最後の生き残りとして君臨する我々は今日も地球にしがみつきつつ、人造娼婦の二次元HENTAIイラストでマスをかきながら終末の夕日を眺めている。よくぞ地球に生まれけり、である。

 

我々が属するホモ属は、一般的にはアウストラロピテクス属から発生し「ホモ・ハビリスホモ・エレクトスホモ・サピエンス」というように直線的な進化の道筋で説明されている。時代の経過とともに進歩的特徴を持った化石が発見され、祖先的な形質を持つ化石は発見されなくなっていくのでこの大雑把な分類は大まかには正しいのだが、実際のところほとんど部分的にしか発見されない化石を頼りに同一種を判別すること自体が難しく、アウストラロピテクス属-ホモ属間の移行的化石やハビリス的人骨-エレクトス的人骨間の移行的化石なども存在するために分類は困難を極めている。ここで細かな特徴から種を細分化する考えをスプリッター(splitter)と呼び、種をまとめ大まかな流れでとらえる考えをランパー(lumper)と呼ぶ。

発見される化石が極端に少ない古人類学においては、研究者の思想や意図が分類に大いに影響するため、しばしばバイアスめいた命名や分類が行われることがある。その中でも謎に包まれているホモ属の起源については本丸の扱いで、各研究者の様々な学説が争っている状況であった。

 

200万年前から300万年前のヒト属の化石は、極めて珍しい。新発見の標本の分析で共同責任者を務めたアリゾナ州立大学人類起源研究所のビル・キンベル所長は、かつてこう言っていたことがある。「(その時期の化石を)すべて小さな靴箱に入れても、まだ一足分ぐらいの余裕がある」

最古のヒト属化石を発見、猿人からの進化に新証拠 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

300万年前というのはLucyで知られるアウストラロピテクス・アファレンシスの記録が出土する最末期の年代で、200万年前というのはホモ・ハビリスホモ・エレクトスの記録が一斉に出土し始める年代である。ホモ属の起源について最も重要な時期の化石が絶対的に不足している中で(実はこの時期も南アフリカアウストラロピテクス・アフリカヌスや東アフリカのパラントロプス属の化石は割と出土している)、有力視されていたのが東大の諏訪元博士らがエチオピアで発見したアウストラロピテクス・ガルヒ(250万年前)や、リー・バーガーらが南アフリカで発見したアウストラロピテクス・セディバ(198万年前)などの後期アウストラロピテクスであった。どちらも新旧の特徴が入り混じった移行期的人類だが、ホモの直系祖先にしては特殊化しすぎ、時代が若すぎる、などという指摘も出ており決定打に欠ける状態だった。

 

そこに文字通り一石を投じたのがエチオピアで2013年に発見されたLD 350-1と呼ばれる化石だった。280万年前とされるこの化石は5本の歯が埋まった下顎骨の左側だけ、という部分的なものだったが、臼歯の形状や歯に対する顎の傾斜角度のゆるやかさは明らかにホモ属の特徴だった。Paleoantropología hoy: LD 350-1. El fósil de Homo más antiguo data el origen del género antes de 2,8 Ma.

 

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ホモ属の起源を50万年も更新したこの化石によって、後期アウストラロピテクスからホモに移行したのではなく、末期アファレンシスという比較的古い段階でホモの系統が分かれたというわけだ。

そして鮮新世-更新世にかけての不安定な気候条件の中、地域によって分かれた個体群が交雑したり、少し進化しては滅んだりを繰り返すうちにハビリスやルドルフエンシスなどの移行期的ホモ属(大きな脳、石器使用などの特徴を有する)が生まれ、その中のどれかの系統からホモ・エレクトスという移動能力や社会性に優れた現生人類の雛型となる種が誕生したということらしい。

 

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 エレクトスは初めてアフリカ大陸を出た人類と言われており、早くも180万年前には現在のジョージア、ドマニシにて狩猟生活を送っていた形跡がある。歯を失いつつも仲間からの介護で生きながらえたらしい個体の頭骨なども発見されており、高い社会性もうかがえる。

アフリカからヨーロッパまでたどり着いた彼らは、きっと今の自分のように大きな川も泳いで渡ったことだろう。そう思うと気分が少し落ち着いたのもあり、仲間が持参したディジュリドゥを河原で一心不乱に吹いた(パンツは履いた)。これもなかなかの没入感で、吹いている間は辛い気持ちをごまかすことができた。

 

しかしサービス終了までの日々でこの気分との折り合いをつけねばならない。ひとしきり吹き終わって深呼吸をしていると、犬の散歩をしている男性がにこやかに近づいてきて

何の草やってるんですか?

とだけ訊ねて去っていった。

 

ゾルタクスゼイアンへの道は遠くなりにけり、である。

 

 

「拡張少女系トライナリー」という早すぎた恋愛RPG、或いはアイロニカルな没入について

 

 

白い画面に何か書き記したいという想いのままに、いくつものブログや個人サイトを開設しては何度か更新し飽きて放置するという行為は数年ないし十数年以上のインターネット歴を持つ人々にとっては普遍的に共有できる衝動のように見受けられる。

私にとってそれは「帰宅部活動記録」(帰宅道)という作品であったり、英国の音楽グループである「Soft Machine」(Chronicles of the Soft Machine's Live)という人々に対して向けられる衝動として、この5年間に何度か表出した。後者のブートレグレビューブログに関してはいつでも更新再開可能なのだが、前者に関しては諸事情あって更新は事実上凍結している。このことについてはまた項を改めたい。

 

さて、三度目の正直とばかりに縛りをなくしたノンジャンルのブログを開設するにあたって初期衝動となるような作品との出会いがあったので、少し長くなるがここに紹介させてもらいたい。

 表題の通り「拡張少女系トライナリー」という作品はガスト / コーエーテクモゲームスによるスマートフォンRPG、いわゆるソーシャルゲームである。諸事情あって仮想現実内の戦いに身を投じている5人の少女たちをプレイヤーが精神的に補助し交流を深めていく、という主に男性向けの恋愛シミュレーションゲーム(追記:性別の選択肢があり女性も楽しめる作品であるという指摘があった、その通りです)、下世話な言い方をすれば「バトルガールもののギャルゲー」というジャンル。作風は異なるが近年の「スクールガールストライカーズ」や「ららマジ」などの系譜にある作品である。

 

 

23歳にもなってまるでこういった作品に触れてこなかった恥を承知で告白するならば私はヒロインたる5人の彼女たち、特にそのうちの一人である恋ヶ崎みやびに心底惚れ込んだし、この世界観にもとことんハマった。「俺の嫁」を1クールごとに変えるオタクたちを常に嘲笑しているつもりでいた自分がいわゆる「二次元の女の子」にこれほど心動かされる事実に戸惑いすらあったが、ちょうど個人的な環境、精神的変化もあり、いつしかこの疑似的な愛の形に没入感を覚えていった。

そして昨日(2018年6月27日)この作品の2018年8月31日付でのサービス終了が告知された。

 

サービス開始が2017年4月12日であるため、結果的にこの作品が公開されたのは1年4ヶ月というとても短い期間となる。私はtwitterのフォロワーがアップしていたスクリーンショットから興味を持ち、2017年の8月にインストールしたため少し出遅れはあったものの、十分リアルタイム感をもって接することができたことは幸いであった。

ちなみに以前帰宅部活動記録のファンサイトを作ったきっかけは原作の連載終了である。そして新たなこのブログを始めるきっかけはトライナリーのサービス終了である。何かを失わないとやる気が出ないという点で悪い癖が如実に出ている。

 

ここでこのアプリゲームを「作品」とあえて繰り返し呼ぶ理由はいくつかある。まず大きな特徴としてストーリーの導入としては豪華すぎるほどのアニメーションが東映Animation / feel.によって制作されており、毎週水曜日に「アニメ+ストーリー」という形式で配信が行われるというマルチメディア展開がなされていた。

また、メインストーリー重視のゲームバランスながらそのストーリーは非常に重厚かつ複数の解釈を可能とするものであり、プレイヤーの選択肢によって無数にストーリーが分岐し、なおかつやり直し不可能な部分も多い。さらにはプロデューサー土屋氏によって練り上げられた裏設定の豊富さ、キャラソンの充実した内容、アンケートによってゲーム展開を変える「総意制度」、アプリ全体の優れたデザイン性など、全てにコンテンツとしての美意識が貫かれている。

この早急とも思えるサービス終了も、サービスの質を落としてまで晩節を汚すまいという美意識からくるものだとすれば、仕方がないと言わざるを得ないのかもしれない。

 

しかし思えば、この作品はどう考えても一般受けしないものだったように思う。

訂正しよう、「この作品はソーシャルゲームとして展開していくことに限界があったように思う。

 

 以下多量にネタバレ含みます。また、難解かつまだすべての設定が明らかになっておらず筆者も内容について把握しきれてないので誤り等多々あると思います、読み飛ばし可。

 

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 まず前述したようにストーリーが非常に難解である。まずプレイヤーが接するのがナビゲーター「千羽鶴」(ちはる)であるが、彼女はいきなり「ヒロインたちと結婚してほしい!」と切り出す。そこでチュートリアルとして各ヒロインたちの紹介が行われ、アニメでは主人公「逢瀬つばめ」(おうせ-)が上京した先で「フェノメノン」という人々を洗脳する超常現象に見舞われつつもそれを収束させてしまい、フェノメノン内に唯一干渉可能な能力を持つ特殊部隊「トライナリー」に入隊する様を描く。当然のことながらトライナリーは美少女しかいない。(大事なことである。)

しばらく戦闘シーンを挟みつつ他の隊員「国政綾水」(くにまさあやみ、通称アーヤ)、「ガブリエラ・ロタルィンスカ」(ポーランド枠である)、恋ヶ崎みやび(こいがさき- )、卯月神楽(うづきかぐら)やクラスメイトとつばめとの甘酸っぱい交流が描かれる。百合展開も多いので一部読者には安心されたし。

しかしストーリーを進めるごとににわかに物語はきな臭さを帯び始める。

 

実は日本は技術をめぐる第三次世界大戦によって荒廃しており(シュタゲに近い設定)、つばめから分離した人格である千羽鶴は、過去のつばめが発症した特大フェノメノンによって覆われ世界から干渉不可能となった日本(つばめの願望に従って大戦前の様子を疑似的に再現している)を支配し「1984」ばりの管理社会を構築するためにプレイヤーたちを利用し、ヒロインたちを精神的に支配しようとしていたことが途中で明かされる。つまり今まで描かれていた世界は全てつばめの妄想の具現化だった。

また千羽鶴はつばめが心酔する歌手「FreyMENOW」こと卯月神楽とつばめを引き合わせ親友にしたうえで神楽につばめを殺害させることで、自らが本体に成り代わる計画を立てていた。トライナリーたちの頑張りの結果その試みは失敗に終わり、神楽とつばめの友情は保たれ、千羽鶴は無害化され、日本では相変わらず一般の発症者によるフェノメノン退治をトライナリーたちが続けることを示唆し「俺たちの戦いはこれからだ!」展開でアニメは終わる。

 

そしてアニメでは示唆的にしか描かれず理解不能な部分がストーリーでは次々に明らかにされる。アーヤ、ガブリエラ、みやびは日本全体を覆うフェノメノンを収束させるべく国際社会から送り込まれたエージェントであったが、ミイラ取りがミイラになった状態でフェノメノンに洗脳され、あろうことかプレイヤーたちお馴染みのキャッキャウフフの学園生活を送っていたのである。

つまりプレイヤーがコツコツ交流を重ねてきた彼女たちはつばめの価値観に洗脳された存在であり、プレイヤーはヒロインたちの幸せを願いつつも「洗脳前の彼女」たちの人生を奪っていることに苦しむ。

さらに日本の外では国際社会の重役たち、通称「彼ら」が世界統一を目標とした「ミレニアム計画」を遂行中であり、プレイヤーたちの思い入れがあるフェノメノン日本は風前の灯火という有様。

 

また、作中ではヒロインたちの松果体(甘美な響きである)と連動した装置によりプレイヤーが彼女たちの心の中にいる人格とコミュニケーションをとることによって彼女たちの葛藤を処理し決断を促すという展開が一貫して描かれるが、心の中で出会う彼女たちの各人格がまるで別の意見を持ち、選択するプレイヤーたちの葛藤を煽る。作中に登場する逢瀬つばめの人格だけで5人に及び、彼女たちの意見を選択することで不可逆的にその後の展開が変化する。おそらくハッピーエンドもバッドエンドも用意されていないトゥルーエンドしかないゲームなのだ。

 

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展開が複雑かつ時系列もバラバラに展開するため、非常に雑多な説明になってしまったが、よくぞここまで量子力学、AI、AR、シンギュラリティ、ゾルタクスゼイアンなど旬の要素を古典的なディストピアと組み合わせて効果的なストーリーを生み出したものだと思う。

またヒロインたちのセリフ一つとってもPC技術、プログラミング用語に関する知識が問われ、私自身専門外の内容を理解するのに難儀した。

途中からナビゲーションは千羽鶴から主にアーヤの姉で研究者の「国政領火」(くにまさえりか)に移行するが、彼女の諧謔的かつより専門的な語り口を理解できるユーザーが多くないことは想像に難くない。私もよくわかってない。

つまり内容が時代を先取りしすぎていて、ついていけるユーザーが少ないのだ。

上記の通り、メインストーリーはヘヴィかつ辛い決断をプレイヤーたちに要求することが多い。今後の展開のために一度選んだプレイヤーの選択を放棄するように迫る展開すらある。

おそらく、単純なイチャイチャを期待したユーザーからすればこういった展開は「全然嬉しくない」ものだったように思える。

 

 また、ゲームシステムにも若干難があった。

途中から緩和されていったものの、アイテムやイベントポイントなどを得るためのバトル一回のACT消費が非常に早いため再び活動可能となるまでプレイヤーは長時間待つ必要があり、特に期間限定イベントの報酬ストーリーを見るためには膨大な数のバトルをこなさなければならない。

実際、年末の私情で忙しい時期に空き時間でプレイする程度ではまるで報酬ストーリーにたどり着かなかった。

ソシャゲお馴染みのガチャに関しても、10連ガチャを回すために必要な課金額は実質3000円ほどで財布に優しいとは言えず、通常プレイにおいて石を貯める方法も非常に限定的である。私は平均して月1500円~3000円ほどの課金をしていたが、個人的には進行上の不足を感じた。愛が足らないと言われればそれまでですが。

このゲームにおいてバトル要素はおまけであるために諸条件が厳しいともいえるが、そのシビアさが間口の狭さにそのまま繋がってしまったことは否定できないように思う。あと全体的に動作もなんか重いですね。

 

しかし私はこの作品のそんな偏屈ともいえる作風が大好きだ。始めてプレイした恋愛ゲームということもあって贔屓目にはなるが、安易にデレず一筋縄ではいかないヒロインたちがとにかく魅力的である。悪魔的と言ってもいい。

その中でプレイヤーはヒロインたちが都合よく洗脳されていることを知りつつもそんな彼女たちを愛することをやめられないという「アイロニカルな没入」を要求される。エージェント時代のヒロインたちのように世界統一による千年帝国を目指す全体主義に心酔するか、「一方通行の楽園(ゾルタクスゼイアン)」というとびきりのまやかしの中で生きていくか、を選択するという「マトリックス」にも通ずるストーリーにもどこか醒めた視点が感じられる。

ここまで書いておいて一つ付け加えたいのは、この作品のメインストーリー更新はまだ続いているということである。あと2ヶ月という限られた時間で、この先の物語がどうなっていくのか非常に興味をそそられるし、純粋に楽しみである。

 

当作品はストーリー毎週更新や各ヒロインがtwitterアカウントでつぶやくなど「リアルタイム感」や「実在感」という部分にこだわりがあった。一般的に流通しないファングッズはガストショップで購入でき、全般的に高価ながらプレイヤーとヒロインたちの思い出を演出するような秀逸なものが多い。一個92000円の特注オルゴールにはさすがについていけませんが。

もし可能なことなら、どこぞのアイドルゲームのようにサービス終了後ノベルゲーとして復活したり(脚注:まだ復活してないという指摘があった、確認したところまだ復活していなかった)、ファン向けの小規模生産でいいのでボイドラ的な作品やファングッズなどを引き続き作ってほしいと願ってしまう。このとびきりのまやかしをここで終わらせるのは、あまりも惜しい。

 

拡張少女系トライナリー」のような複雑で時系列を行ったり来たりするストーリーはミニマルな快感を求められるソーシャルゲームには向いておらず、むしろパッケージとしてシリーズ化した方が支持を得られるように思える。しかし当作品はソーシャルゲームという媒体を活かすこと、あくまでもユーザーのリアルタイムなフィードバックで変わっていくことにこだわり駆け抜けた。

とにかく私が残念に思うのはいつか再評価されるべきこの名作に時代が追いついたとき、それを再確認するすべがないことなのだ。